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吉田敬太郎著「汝復讐するなかれ」 

 故吉田敬太郎牧師は実にユニークな人生を歩んでこられました。小説や映画で有名となった「花と竜」の吉田磯吉親分の息子であり、太平洋戦争中に衆議院議員として戦争反対を唱え投獄され、憎しみと復讐に燃えた獄中で聖書と出会い人生が大きく変えられました。同じ頃、留守を守る奥様は北九州にある西南女学院(バプテスト派ミッションスクール)を通して聖書と出会っておられ、それぞれが主の不思議な取り扱いを受けておられました。

 戦後、若松バプテスト教会でバプテスマ(洗礼)を受けて共に信仰生活を送られました。その後、同教会の牧師として召され、奉仕されましたが、人々に請われて当時の若松市(現在、北九州市若松区)市長となり、その後合併して北九州市が誕生した際には、最初の北九州市長として奉職された後、天に召されるまで全国の教会を巡って実にユニークな歩みをされました。個人的には私の父が福岡で開拓伝道を始めた頃、何度も応援説教に駆けつけて下さいり、実に多くの励ましを受けました。先生が残された名著「汝復讐するなかれ」は、21世紀になってもなお憎しみによる復讐の連鎖が断ち切れない社会と人々へ大切なメッセージを発信していると信じます。この本(英語版も有り、近く公開予定)はキリスト新聞社より発刊され、現在は絶版となって一般には入手できません。しかし、一人でも多くの現代人に読んで頂きたいことを吉田敬太郎先生のお孫さんにあたる基子さんに申し出ましたら、吉田家の方々が快く承諾して下さり、長崎バプテスト教会のホームページ「原爆と平和」に転載されることとなりました。心より感謝致します。主がこの証を用いて下さる事を祈りつつ。

                              Y. Tomono

 <感謝:この文章は、何年も家に引きこもっていたある青年が教会に来るようになり、タイプを覚え、日々少しずつ入力して下さって、堂々完成したものです。協力して下さったYくんに心から感謝致します>

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「汝復讐するなかれ」 吉田敬太郎著 キリスト新聞社(絶版)

再版の序文

汝、復讐するなかれ この小著を世に送ってからもう十四年余にもなりました。月日の、いかに速やかに経過して行くものか、今更のように驚いています。だが太平洋戦争でわが国民の遭遇した物心両面における筆にも口にも尽くせない深甚な損害と悲哀とは、時の力がいかに強大でありましょうとも、私たちの心の傷と痛みとを決して消し去ることは出来ないでしょう。

 初版の序文をご覧下さればおわかりになるでしょうが、本書は戦時中私が衆議院議員として理不尽な軍閥政府の投獄をうけ、度々獄死に直面した中から、イエス・キリストの不可思議な御救いにあずかり、神の恵み、逆境の恩寵に浴した一信徒としての証しにすぎません。しかしその後再刷の希望を沢山のかたがたからいただきましたので、母教会の協力によって再刷することに致しました。本書が生きて常に働き給う真の神を知るために多少なりとも皆様のご参考になり得れば幸甚です。
      

       一九八四年一月二十三日  若松バプテスト教会名誉牧師 吉田 敬太郎

 

序文

 いのちのことば社の「百万人の福音」誌に昨年の一月から九月まで連載されました、拙稿「汝復讐するなかれ」は意外な反響を生み、その後多くの方々からこれを単行本にまとめてほしいとのご希望がありましたので、社とご相談して、多少の訂正と増補のうえここに出版されることになりましたのは、まことに私の喜びでありまた感謝するところです。
 この小著の意図しますところは、私のような頑愚でしかも仏教の一信徒が、どのような不思議な経験を通して神に召され、ほんとうの救い主に目を開かれていったかという、私の証言をしるして読者の参考に供したい願いからです。神さまは人々を救おうとなさって、昔も今も少しの変わりもなく、常にいろいろな方法や手段をとりかえ引きかえして、私たちに接触の御手をのべておられます。私のばあいには戦時中の恐るべき獄舎の中にまで、その慈愛の光をさし入れ、慰め、導いてくださいました。そして飢えや、病気や、火災や、侮辱などいっさいの苦しみの中を通して、神の驚くべき救いの力を示してくださったのです。私たちの神は生きて常に働きたもう神である、との教えは決してむなしいそらごとではありません。私は自分の全身全霊をもって、この神のまことに強烈無比なお働きに触れたのです。この本の中にごらんのように、私は大東亜戦争のさなかに、軍の暴虐な弾圧を受け、投獄され、ずいぶんひどい扱いをされましたので、腹の底から軍部に対する憎悪と復讐の念をかきたてられ、あやうく生きながら地獄の火におちいろうとしたところを、聖書のみことばに触れて不思議な新生へとこの目を開かれたのです。しかも、そればかりでなく、無事出獄の後に神みずからの報復が厳としてある、いやあるどころではない、なんとも恐るべき神の審判とも申すべきものが次々とあらわれてきて、身のすくむ思いにうたれたのです。そして聖書の真実な教えを決して無視してはならないことが、よくわかったのです。逆境を通しての恩寵とよく言われますが、私もそうした恵みに浴したひとりです。さらに私のばあいには本書でごらんいただけばわかるように、出獄後すでに二十六年あまりが経過しましたが、神さまは常に身近にともにいて絶えず恵みから恵みへと愛の御手を重ねてくださるのです。

 この本の内容の前半をなすものは、私の獄中の所感を出所後にしたためた獄中記から引用したものですが、今日読みかえしてみても、あのなまなましい獄中苦の実感がどぎついくらいに感じられるのです。これらのものには私事に関するものが多いので公表することはなるべく遠慮したかったのですが、よく考えてみますと、たとえ私の個人的な事がらであったとしても、そこに非常に多くの神の不思議な救いのみわざが示されている以上、これをこのまま私のみにしまっておくことは、キリスト者のひとりとして主のあかしをなすべき責任上、大きな怠慢と誤りをおかすことになるでしょう。そこで一昨年、社からのお勧めのあったのを幸いに、拙文をごらん願った次第です。また本書は別の見方から申せば、ひとりの異教徒の転向改宗のあかしとも言えましょう。あかしですからむつかしい教理や神学ではありません。キリストの福音にはぜんぜん縁のなかったひとりの未信者が神の恵みに触れ、支えられ、そしてついに救われた、その経過と喜びをありのままに語るにすぎません。

 したがって読者は、淡々たる気持ちでこの本を読んでください。そして世の中には意外なことがあるものだなあと、神の偉大なみわざの一端に触れていただくことができれば、それでこの小著はご用に役立ち、私の感謝するところです。 

                                著者

 一 父は「天下の大親分」
 私の父、吉田磯吉は、いわば立志伝中の人物で、火野葦平君の小説「花と竜」や映画などにも顔を出しているから、すでにご存じの方もあるかと思う。「九州一の大親分」とか「天下の大親分」などと書きたてられているが、その「親分」が私の父なのである。
 現在、牧師をしている私が、侠客の家に生まれたというと、異様な感じを与えるかもしれない。そこで、この話を始める前に、吉田磯吉という人物を簡単に紹介しておくことにしよう。
 北九州に遠賀川という建設省の一級河川がある。源を英彦山から発して筑豊の平野をうるおしつつ北の玄海に流れ込んでいる。その川口が芦屋の町で、慶応三年五月、父はこの町はずれの極めて貧しい家に生まれ、幼年にして父をなくし少年にして母を失い、姉の手で育てられ、遠賀川の川平のり、つまり石炭を奥地から運ぶ船底の平たい、かわひらと称するはしけの船頭となった。
 こうして忍苦奮闘の生活史が始められたのである。こうした遠賀川の石炭運送船で働いていた若いころから、常にけんかやもめごとの仲裁をしているうちにしだいに兄貴分として仲間から立てられるようになった。一万五千人もの子分をかかえ、関西一の親分と言われるようになってからも、不思議なことに、この人のからだには入れ墨一つなく、人を斬ったこともなぐったこともない、よく映画などに出てくるような暴力沙汰が全くないのである。したがってあの波瀾万丈の任侠生活の時代においても警察沙汰一つ起こしたことがなく、前科を持つようなまちがいも生じたことがなかった。これはほんとうに他に類例の少ない珍しい親分であったと言えよう。ではどうして「親分」であったのかというと、常に人の争いやトラブルを仲裁し、調停し、仲直りさせていた、その実力だけで人々から親分と立てられていたわけだ。なるほど天下の侠客として雷名をはせた人ではあるが、こういう点で世にいう遊侠の徒とは違っていた。
 大衆小説家の子母沢寛氏は、父の伝記の中でこんなことを書いている。
 「親分には二種類ある。子分を犠牲にして自分が偉くなるものと、自分が犠牲になって子分を偉くするものとである。吉田磯吉さんは後者に属する。自らは喧嘩せずに、人の喧嘩の仲裁にのみつとめた親分としては、さきに大前田英五郎、後に吉田磯吉ではあるまいか」
 こうして吉田磯吉は、前半生は任侠の徒の中にあったが、後半生はほんとうの国土であったと思う。大正四年の大隈内閣の時から昭和七年までの約二十年間、五期か六期衆議院議員を務め、後に総理となった浜口雄幸さんや後の民生党総裁町田忠治さんらと同期で表面には出なかったが、民政党のためにはずいぶん陰の力となったのである。ただ、政治家の中にあっても、さまざまなトラブルを解決するたびに、その侠気と温厚な人柄が認められ、隠然たる存在になっていった点は、若いころから一貫して変わらなかった。
私は青年のころから九州と東京の間を毎年数回となく往復しているのだが、往復の車中で父のような男らしい容貌風采の人を見たことがない。堂々たる六尺近い身長で、肩幅が広く骨格がたくましく、顔つきは威あって猛からず、すこぶる無口だが温厚親切で、だれにでも腰の低い礼節の正しい人であった。まあ一度見たら決して忘れないような、ほりの深い、男らしくて、またやさしい顔つきの人だった。

 二 郵船事件など
 大正十年四月から五月にかけて起こった「郵船会社事件」というのがある。これは当時の大新聞が筆をそろえて報道した大きな社会的事件の一つであった。政党政治はなやかなころで、当時わが世の春をうたっていた政友会は、政党内閣の威力を背景として国内のめぼしい利権をことごとく手に入れようとした。折りから第一次欧州大戦のおかげで莫大な利益をあげていた郵船会社に目をつけ、ある右翼団体と結託し、会社を乗っ取ろうという画策を進めたのである。この会社は一朝事ある時は軍事輸送にあたる義務を持っていたから、平時においても巨額の国庫補助金を受けていたし、皇室関係の持株もかなりな額に上がっていたので、この陰謀を知って心を痛めたのが山県有朋公である。だが、当時の政治社会情勢では、さすがの元老も正面切って施す術もなく、福岡県出身の父の先輩杉山茂丸翁とひそかに相談した結果、ここに吉田磯吉登場ということになる。政友会側が暴力団をそそのかして、郵船会社の総会を混乱に陥れようとたくらんでいるからには、それに対抗し得るだけの実力を持つものが必要だったわけである。
 そこで、父は、九州、四国、山陽にわたる一門から決死の士四百余人を選抜して上京させ、総会の当日会場の内外から近隣三、四か所を水ももらさぬ態勢で固めたので、さすがの政友会側も手を下すことができず、ついに乗っ取りは事前に阻止されたのである。その折り、ふだんは温和で寡黙だった父が、巨大な体躯に怒りをみなぎらせて、新聞記者たちにこう語ったそうである。
 「紳士がたを暴力で圧迫するとは何事です! 私は郵船に恩も恨みもないが、暴力で不当な野心を遂げようとする者があると聞いては黙っていられない。かかる問題は一会社の問題じゃない。国を危うくするもととなる。いわんや郵船会社は単なる営利会社とは性質が違う。これに対して警察当局もいっこう手を出さんようだから、私は最後の決意をしたのです。数字で争うべきを暴力で争うとは何事かい」
 私の知っている限りでは、この事件以外に父がいわゆる実力行使に類することをしたのを見たことがなかった。
 父は不思議によく金を集め、また、よく散じた人だった。その豪放な半面に緻密な経済的知能のある人で、まことに金づくりと金使いのあざやかさには驚くことが多かった。機嫌のよいときにはよくこんな話をした。
 「天下に金もうけで有名になった人は、昔からいくらでもあるが、金使いで有名になった人は、ほとんどないようだ。」
 つまり、金づくりで名を成した人はたくさんあるが、もうけた金を人々のために有益に使用して有名になった人は非常に少ない。そこで自分は金使いの方で有名になろうか。それが父の心中に去来した念願のようであった。私が東京の麹町の宅で玄関番をしていたころ、毎日のように銭もらいの客が押しかけて来た。子供が病気だとか親が死んだとか、いいかげんな口実で父から金をもらい、その金で酒を飲むといった手合いである。ある時、私は父に言った。
 「人に恵まれるのはいいが、あれでは金をドブに捨てるようなものですよ」
 「では、おまえはどんな者に金を与えたらよいと言うのか」
 「私なら、もっと将来有為な人物に与えます」
ところが、父はこう言った。
 「将来有為の人物なら、天下どこへ行っても世話するものがおる。おれは生死をかけた場数を踏んできたから、あの連中がおれの前にすわれば何も言わなくても、うそを言っているくらいちゃんとわかっとる。だが、連中はおれのところ以外はどこに行ってももらえない。おれがくれてやらねば、きっと盗むか、人をだますかして、世間に恐ろしい犯罪をふやすことになる。一軒の家にはくずかごが必要だ。それがないとりっぱな座敷もきたなくなる。おれは人間のほごを投げ込むくずかごのつもりでおるのだ」「おれは天下のくずかごだよ」と大きく言い切ったときの父のすばらしい啖呵と、はればれとした顔つきとは今でも生生思い出されるようだ。

 ものごとの考え方において、父と私とでは、どえらい次元の違いがあることを教えられ、その後、私は父のやることに決してむだなさし出口をはさまないことにした。

 三 代議士になんかなるな!
 私はこんな父の薫陶を受けながら、何一つ苦労もせず、東京で大学を卒業し、三菱鉱業本社に勤め、その後、大倉高商(現在東京経済大学)の講師になったりした。昭和六年ころ、父に呼ばれて九州へ帰り、その当時父が経営していた二、三の炭鉱経営の手助けをするようになった。そして、父に金をもらって、アメリカから欧州へと一年ほど政治経済の視察旅行をした。昭和七年から八年にかけてであった。
 昭和十一年一月父の没後、その跡を相続して七つ八つの会社の社長または重役を兼ね、父の遺産により生活もまずまず不自由はなかった。しかし父の晩年に、私も政治に携わることになった。父はこれには全然反対であったのに、周囲の人々の懇請により、ついにやむなく許すことになって、福岡県会議員に出たのである。昭和十年から約八年間これを務め、さらに昭和十七年四月の選挙で衆議院議員となり、いよいよ本格的に政治生活に踏み出すことになった。それまでの数年間は、文字どおり順風満帆、出世コースをたどり、四人の子供にも恵まれ、家庭は円満で平凡といえばまことに平凡な平和が続いたのである。
ところが、これからが私にとって波瀾の多い多難の時期となり、父の予言がみごとに的中することになった。というのも大正から昭和にかけて政界の裏にあって、それなりの苦労を重ねた父が、
 「絶対に代議士なんかになってはいかん。おまえは郷里でなるべく平穏な生活をせよ。一生食うくらいの財産はあるから、政治なんかにクチバシは入れるなよ。おまえが政治に出るとなると、必ず衝突を起こすようになる。今の政治はずいぶん乱れているから、政治家の中に立って調和を保っていくことなど、今のようなおまえにはとてもできるものではない。おまえの性格はちと潔癖すぎる」
 こう言って、私の政界進出を厳重に止めていたのである。だが、私は亡父の切なる訓戒にそむいて、昭和十七年四月の総選挙に福岡県第二区の父の地盤から出馬した。そして満々たる自信と闘志をもって、五名の定員に対し十五名の立候補という乱戦の中から、第四区でめでたく当選した。
 ここで、私の立候補にからむ奇態な裏話をしておく必要があるかと思う。総選挙に先立つ約一年ぐらいの間に、昔からあった二代政党、政友会も民政党も軍部の圧力のもとに解党を宣言するに至り、その他の弱小政党も次々消滅にと追い込まれ、十七年の春には、「翼賛政治会」と称して阿部陸軍大将を総裁とする天下にただ一つの政党が新たにつくられ、戦時内閣をバックアップする唯一の公認政治団体として表面に浮かび出した。そこで選挙に立候補する時、この団体の公認を得たものには軍官民の絶対的支援があり、当選はまず確実であるが非公認の候補者はその影が全く薄くなるという定評があった。そこで候補者は事前に翼賛政治会から推薦を受けて公認候補としてもらうために、陰に陽に力を注いだものである。
 私はというと、実弟が時の内務大臣の秘書をしていたので、警保局による全国的情報をいち早くキャッチして、それを内報してくれていた。その手紙によると、「兄さん、あなたは欧米に一年もいたので親英米主義者だと誤解されているから、翼賛会の推薦候補からは落されているようだ。だから非公認でも断固として戦う準備をしたほうがよさそうですよ」というのであった。
 全くばかばかしい話だ。欧米の視察を一年くらいして来たからといって、親英米主義者だとか自由主義者だと断定するのはまさにナンセンスである。もっとも、当時の風潮は排英米一辺倒だったから、英米の文化でもよいものはよい、悪いものは悪いと比較的公平な見方をしていた私が誤解を受けたのもやむを得なかったかもしれない。だが、私にしてみれば、全世界をおおって一体となろうという「八こう一宇」なる日本のかけ声が、ほんとうに大東亜戦争の精神であり、金看板であるならば、そんな小さなことに拘泥するのが実におとなげないわざで、もっと寛容雄大な気宇を持つべきだと思っていたので、あくまでも是々非々の気持ちは曲げなかったのである。
 さて翼賛会の推薦発表では、はたして私は選から脱落していた。早く言えば、軍閥内閣を応援し、戦争を完遂するにはふさわしからぬ人物ということになったわけである。選定された顔ぶれはどうかというと、その中にはむしろあんな連中と同列に置かれないほうが幸いだと思われるような人物も二、三あった。私の闘志は火に油を注がれたように一段と強く燃え上がり、非公認として堂々と決戦を挑むことになった。
 ところが、何としたことか、戦いがすでに中盤戦から終盤戦にはいろうとする時になって、翼賛会は突然、劣勢の某候補を引退させて、その後釜に私を推薦してきたのである。しかも阿部大将から、「ぜひ推薦を受けてほしい」との懇請の電報が飛び込んできたのだ。私は断わるつもりであった。だが周囲の友人たちから、この際、事を荒立てずに当選するほうが先決だとなだめられて一応承諾することにした。
 思うに、情勢がすでに示すように、私の当選確実の公算がはっきり見えてきたので私を引き入れたのであろうが、最初から私は、東条政府の人たちにあまり好ましからぬ客のようであった。

 四 証拠隠滅の大謀略
 昭和十六年十二月八日、例の真珠湾攻撃と同時に、日本がアメリカとの戦争に突入したのは、私が国会に出る三か月余り前のことである。そのころの私は、こんな無謀な戦争をなぜ断行しなければならないのかと、非常な疑問を持っていたが、すでに戦端が開かれた以上、国民の一員として国策に沿うように努めなければならなかった。そこで、適当な機会があればこの戦争にうまく幕を降ろすように努力する以外に道はない、と内心ひそかに考えていた。
 さて、昭和十七年の半ばまでは、いくらか勝ち目の多い戦況で過ぎていったが、八月にはいって雲行きが怪しくなった。特に、同月七日ガダルカナル島に米軍が上陸し、翌年二月にこの島を撤退放棄せざるを得なくなってから、次いで十八年五月のアッツ島の全軍玉砕へと敗戦の暗雲は太平洋上をにわかに速度を早めて、本土へと接近してきたのである。
当時、私は、大学時代の友人が外務省その他各省の中堅的地位に多数散在していたので、国際情勢や戦局の真相をいち早く先取りすることができた。したがって、軍部や大本営発表の明らかなまちがいも、ことさらな事実歪曲の宣伝も、手にとるように判別できる立場に、私はいたことになる。
 そもそも、この戦争を「無謀な」とみなしていたのも、そういう立場にあったからであるが、かりにそうでなくても、たとえば日露戦争の時を振り返ってみれば同じ答えが出てくるにちがいない。そのころ軍部の長老でありまた満州軍総司令官であった大山巌元帥や児玉総参謀長が、時の総理大臣伊藤博文と図って、開戦前から、この戦争は一年間ぐらいは必ず勝ち続けるが、奉天あたりまでせめのぼったら、どれほどわが軍が勝っていても講和条約を結んで、戦争の幕を引かなければいけないという話し合いをつけていた。このように開戦のはじめから政治家と軍人が巧みに手を結んで、有利な立場で戦争を終結させたのである。ところが、今度の戦争ばかりは、そんな見通しもつけずに、東条軍閥の「井の中の蛙」式の無知から始めたので、戦況が不利に傾いても、行きがかり上、引くに引けず、日本の将来も考えぬむちゃくちゃな戦争の指導を続けていったのであった。
 すでに、日本敗北の徴候は顕著になってきた。しかし政府も軍閥も、ただいたずらに国民の目から事の真相をひた隠しに隠すことに腐心し、あげくのはてには「本土決戦」というバカなスローガンを叫び始めた。これは軍と政府の、実に恐るべきしかも憎んで余りある姦策とも言うべきものであった。
 つまり、真相はこうなのである。敗戦はもはや必死であり、時間の問題となった。そうすると、このような戦争を始め、しかも終わらせるための努力すらしなかった重大な責任をだれがとるのかということになった。当事者たちは、それまで天皇と国民に対し、しきりに勝つ勝つとうそをついてきただけに申し開きのことばもない。ついに窮余の策として発明されたのが、「本土決戦」とか、「一億玉砕」という証拠隠滅の大謀略であった。敵を日本の本土に引き寄せ、有利な位置で決戦する、などというのは真っ赤なうそであって、実は敵軍を本土に上陸させ、軍部も一般国民もことごとく火と硝煙と血の大渦巻の中に投げ込んでしまい、責任を問う者も問われる者もすべてが大混乱の中に消えうせて責任追求をしようにもどうしようもない事態の出現をたくらんでいたとしか考えられないのである。
このような策謀は政治的洞察のきく人ならすぐ見破れるはずなのだが、当局者が国民に判断の基礎となる資料を与えるどころか、ひた隠しにしていたのだから、これでは純心無邪気な国民が彼らの虚言を真に受けて最後の破局が到来するまでその欺瞞を見破ることができるはずはなかったのだ。

 五 太平洋カモ撃ち演説
 私は、激しい憤りに燃えて立ち上がった。一刻も早く真相を国民に知らせて、最悪の場合に対する自覚と決心を促し、同時に当局に対しては忌憚のない批判を浴びせかけなければならなかった。
 もしも当時、聖書に親しんでいたならば、私は旧約の預言者エレミヤのごとく、こう叫んだことだろう。
 彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進みさらに語気を強め、日本をモアブになぞらえて叫ぶだろう。
 見よ。敵は鷲のように飛びかかり、モアブに向かって翼を広げる。町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心も、産みの苦しみをする女の心のようになる。モアブは滅ぼされて、民でなくなった。

 しかし、私には「万軍の主」という強力なバックアップはなかった。生前の父が私のことをよく言っていたように「単純な正義感」が、国家の名のもとに行われている虚偽と罪悪に向かって爆発したのである。しかし、私の言行は逆に故郷の人々の中に誤解を呼び起こし、軍部から国民の戦意をくじく者として捕えられ、獄に投じられることとなり、この預言者と相似る運命となった。

 昭和十九年の夏以降、私は至るところで、志を同じくする代議士や政治家・退役軍人などの諸君とともに秘密の会合を開いて、なんとか戦争終結への処置は図れないものかと、いろいろと手を打ってみたが、いかんせん微力で十分な効果をあげ得ぬままに、戦火は広がるばかりであった。
 その運動の一つとして、「太平洋カモ撃ち演説」というのをやった。これはもう秘密活動なんかではなく、若松の鉄道機関庫で百二十名くらいの人々を集めて、公然と演説をしたのである。相手は私が選挙に出馬した時に大いに援助してくれた職員クラブの面々であった。今から思えば、まことに乱暴な演説だったとも思われるが、当時の私としては軍部の欺瞞に国民が少しでも気づいてもらいたい一心だったのである。
 「皆さん、太平洋という大きな沼のかなたに、アメリカ連合艦隊というカモが何千羽と泳いでおって、それがこっちの方に近づいてくるのであります。そこで、漁師が、日本の軍閥政府という漁師がですね、こちらの岸に鉄砲をかまえて立っている。すると、無邪気な子供たちが、これはもちろん日本国民のことです。この子供たちがそばから「オジサン、早くあのカモを撃ってよ」とせがむのですが、漁師は、「まだ早い、もっとカモを岸近くに引き寄せてからでないとだめだよ」と、ゆっくりかまえている。
 ところが、カモの群れは、アッツ、サイパンの上も過ぎ、沖縄に近づこうとしています。さあ、そこで子供たちは躍起になって、「オジサン、なぜ撃たないの? 早く、早く!」と漁師の腕をゆすぶっていますが、相変わらず漁師は、「待て、待て」と、ねらいばかりさだめている。ついに、カモの大群が岸に上がってきて、漁師の足にかみつこうとする時になって、あわてて引き金を引いたのです。ところが、カチッと音がしただけでした。鉄砲には弾丸がはいっていなかったのです」
 こういう辛辣な批判を軍閥政府にたたきつけた以上、憲兵や特高刑事たちが、私をマークして追い回し始めたのも当然だったかもしれない。一方で私は、福岡県知事に会い、敵が九州南端に上陸する時は近いようだから、北九州の市民たちをその際どこに批難させたらよいのか、その対策を尋ねたこともあった。この時に戦いの実情を聞いた知事の驚きは大きかったようだ。
 さらに、十九年七月、東条内閣の崩壊直前、私は現職の代議士でありながら地元の壮年団の団長をしていたので、ある日、若松の白山神社の境内で白鉢巻姿の団員たちを前にして、「東条に国を託すれば国危うし」という演説をした。
 「ガダルカナル、アッツはすでに敵の手中に落ちた。これは日本の脇腹に短刀をつきつけられたようなものである。これを足場にして、今やサイパンが危うくなっている。しかるに東条は依然として日本がまだ勝てるようなことを言っておるが、実は」
 と、ここでもまた、軍部の欺瞞を暴露したので、壮年団の人たちがたちまち憲兵隊に報告した。たまたまその時、長女が病気をして若松の公立病院に入院していたので、病室にいた私のところへひとりの友人が飛んできて、言った。「吉田君、すぐ逃げるんだ! しばらくどこかに隠れていたほうがいいぞ」
 私も、東条内閣がつぶれるまでは、戦争停止運動はやめるわけにゆかぬと思っていたので、娘の枕もとにあった入院費を借りて、それをふところに、東京へ出発した。
東京では友人の世話で、アジトをかまえて機をうかがっていた。私たちの秘密活動は、すでに倒閣運動にまで発展していたのである。ともかく、第一回の逃避行は成功したようであった。

 六 ついに逮捕か!
 昭和十九年七月十八日、ついに東条内閣は倒れた。そのために逮捕の手がややゆるんだのを幸いに、私はぬけぬけと国会へ出て行った。国会会期中は議員を捕縛することができないから、そこでまた今度は決算委員会の席上で軍部に対する攻撃の舌をゆるめず、大いにまくしたてた。三年間のうちに一度は軍事費の決算を出すべきところを全然出していなかったからである。これは憲法違反ではないかと強硬に追求していくと、その途中で、当時翼賛政治会の最高幹部であった福岡県出身の先輩、山崎巌氏が飛んで来て、私の背中をなぐらんばかりにたたいて言った。
 「吉田君、君は何を言っとるのか! あの発言を取り消せ。そうでないと殺されてしまうぞ!」
 だが、私は一歩も譲らなかった。
 「事ここに至ったのはあなたがたの責任ですよ。翼賛政治会があまりにも軍部と妥協しすぎて、今日の誤った情勢をもたらしたのではないですか! 第一、軍事費の決算報告をしないこと、これは明らかな憲法違反ですよ」
 結局、私は、三十名の同志の承諾がなければ国会でも委員会でも発言できないという内規を適用されて、すべての発言権を封鎖されてしまった。もはや国会にいてもこれ以上はどうしようもない。そのうえ、小磯内閣になっても、その戦争指導は以前と少しも変わることなく、ますます「本土決戦」とか「一億玉砕」の掛け声を大きくして、祖国を破滅の断崖へ向かって押しやろうとする勢いとなってきたのである。
 折りから、東京、大阪、名古屋などの大都市が次々にB29の大空襲にあって焼かれた。そこでこの次は北九州の番だと思い、三月上旬、国会終了を待たずに若松へ帰った。そして警察署長、市長、消防団長らをひそかに集めて、東京空襲の被害の大きさを話し、女、子供、老人たちは早く安全な場所へ避難させて、男だけが残り、上陸して来る敵と斬り死にしなければならぬことを話した。彼らはびっくりしてその対策にあたることになったが、やがて、だれからともなく、私が敗戦思想を吹き込んでいるといううわさが広がっていった。
 三月二十日過ぎのある日の真夜中に突然、友人から電話がかかってきた。
 「吉田君、あす西部軍軍法会議のほうから、君を逮捕に憲兵が行くことになってるぞ。なんでもいいから、早く逃げるんだ!」

 七 天皇の命により土下座せよ
 「あす逮捕されるから逃げろ」という友人の急報ではあったが、私はもうその時には、逃げようという気持ちはなくなっていた。国家の存亡が今にも決しようとしている際に、一個人の逃亡はもはやなんの意味もない。むしろ逆手をとって軍法会議の場で、弁護士も立てて、被告として堂々と暴露戦術に出てやろう、そして多くの傍聴者に訴え、国家の現状がいかに恐るべき危機に突入しようとしているかを少しでも多くの国民に伝えてもらおうと、そんな機会の到来を予期して、私は憲兵隊の捕縛におとなしく従ったのである。
 ところが、彼らのほうが役者は一枚も二枚も上であった。私のかけられた裁判というのが、公称「臨時軍法会議」という、たった一審きりで上告を認めずまた、一般の傍聴人はもちろん、証人すら許さないという、恐るべき闇裁判にもちこまれたのである。
 順序だてて話すことにしよう。
 昭和二十年三月二十三日、福岡市の旧城内にある西部軍法会議から、皇室不敬罪、造言蜚語罪、言論出版取締法違反などの罪名を並べた拘引状によって、私は逮捕された。すぐに福岡の憲兵隊に連行され、約一週間ほどにわたり取り調べを受けることになった。その最初の取り調べ役の憲兵曹長なる人物を見て、私は驚いた。彼は前年の夏以来、私のところへ同盟通信記者のバッジをつけて、しつこくつきまとっていた男で、私の口からネタをとるために、憲兵隊からのスパイとして私を内偵していた若者であった。私が治療に通っていた歯科医院にまで尋ねて来たり、あまりに異常な接近を求めてくるので、妻が私の注意を促したことがあった。
 「おとうさん、あの人は警戒したほうがいいですよ」と妻から注意をうけていた。
さすがに女のほうが神経がこまやかである。私はというと、彼が軍部の悪口を言ったり、言論機関に対する軍の圧迫を批判したりするので、すっかり信用してしまい、まんまと彼の手に乗ってしまったのであった。そういう卑劣な手段を弄した男が私を取り調べるというので憤然として、私は言った。
 「きみのような人間に、自分の心境を吐露するなんてことは絶対にできん。きみには断じてものを言わんよ!」
 こうして、取り調べを拒否したので、この曹長に代わって、人のよさそうな陸軍中尉ぐらいの将校が現われた。さすがに良識のある男で、私の言うことを調書にとり、それを上司に出してくれた。その時ちょうど、東京の本部から派遣されてきたYという憲兵少佐が隊長となっていたが、その甲高い声が私のいる部屋にまで聞こえてきた。
 「めっそうもない野郎だ。こんなやつの言うことを、いちいち真に受けて聞くやつがあるかッ、そいつを連れて来いッ!」
 呼び出されて私がその部屋にはいり、その憲兵少佐の机の前に近づいていくと、彼は外套を着たままの上体をそらせ、肩を張り両手を軍刀の柄頭に構えて、やせた青白い顔をごう然と私のほうに向けた。そして、無言のまま顎をしゃくっているから、それはなんの意味かと問うと、「近寄るなと言っているのだ。部屋の入り口にまでさがって立て!」とどなった。私はもうがまんがならず、憤然として言った。
 「きみは憲兵隊長で、ぼくは一被告にすぎんかもしれんが、その調べ方はなんだ! ぼくはまだ完全に罪人と決まったわけじゃない。それに現職の国会議員に対してあまり失敬じゃないか!」相手は一瞬ことばにつまったようであった。私は続けた。
 「軍人は互いに人間としての礼儀をわきまえよ、ということぐらいは軍人勅諭で知っているはずだ。被告であろうと日本人であることにはまちがいないんだ、無礼な質問に対しては答弁せんぞ!」私のことばが終わるか終わらないうちに、少佐はいよいよ青白い顔に怒りをみなぎらせて大声をふりしぼって叫んだ。
 「本官は、天皇陛下のご命令により、貴官を取り調べる。土下座をせんか!」
 私は生まれて初めて土下座というものをした。当時のことだから私は国民服のズボンの上に巻脚絆を巻いて、ゴツい軍靴をはいたまま、泥んこのコンクリート土間の上に土下座をしたのだ。足の痛みなどものの数ではない、こんな侮辱を天皇陛下の命により与えられねばならないとは! 不覚にも涙が出た。こやつをぶんなぐって、いっしょに死のうかとさえ思ったが、まあまあ軍法会議で目的を果たすまでは死ねないのだと、グッとこらえた。そして一言も答えまいとハラをきめた。
 業をにやしたこの少佐は、部下にどなった。
 「こいつを留置場へ連れて行け! こんなやつには毛布もくれるな!」と。

 八 不眠不休の拷問
 三寸角の木の格子戸に組まれた独房に座して、私は、もうだれが調べに来ても返事をしなかった。これではなぐっても突いても効果はないとみたのであろう、彼らは別な戦法に出てきた。昼間は独房にほうりっ放しにしておいて、夜の九時ごろになると引き出して、調べにかかる。それも、水みたいなお茶をすすりながら、ああでもないこうでもないとまるで意味のない一問一答を続けて、夜どおし一睡もさせないのである。そして明け方の五時ごろにやっと独房に帰される。
 六時には起床だから眠る暇などあったものではない。昼間うとうとしていると看守が来てこづきまわすので、これを二日、三日と繰り返されると、もう私はヘトヘトになった。
昭和二十年の三月は格別に寒かった。毛布の一、二枚、それもノミやシラミの巣となったしろものでは、朝方の許された一時間に眠れるわけがない。毎夜の不眠という拷問の上に、さらに空腹が加わった。ろくに食べさせもしないのだ。憲兵隊の独房では他からの差し入れの食事は一切厳禁であり、わずかに支給される食事といえば、にぎりこぶしくらいの竹を節目から輪切りにした小さな円筒にめしを入れて、その上にたくあんが二、三片おいてあるだけのものだ。便所も便器もなく、狭い独房の板床の隅の板をはぐるとそこが便所で、その横に毛布をかぶって寝るのである。悪臭と不潔、特にシラミには悩まされた。私は思った。こんな状態を長く続けられたら、心身ともに参ってしまうのは確実だ。どうせ、精根尽き果ててから、彼らのお膳立てによる書類に署名させられるのが落ちである。それならこちらにも戦法がある。私は彼らの言うとおりに署名してやるから書類を持ってこいと言った。そうすればすぐに陸軍の未決監に移され、軍法会議の予審にかけられることになる。それだけ私の意図を実現する機会に一歩近づくわけだ。
 こうして、私は福岡市の城跡にある陸軍拘禁所なるところへ移された。この建物の中は、中央に一本の狭い廊下が走っており、両側に馬小屋みたいな板張りの独房が並んでいた。
 そこへはいって、まず私を驚かせたことがあった。私は小用が近いので、部屋にはいってからすぐに隅に置いてある桶に近づいて身を構えようとした。そのとたん、後ろから「おいッ、何しとるかッ」と、どやされた。ここでは時間が来ると、規則正しく「警査」という名の看守が廊下のまん中に立って、号令をかけるのだ。
 「ジョウセーイ!」すると、入獄者は皆同じ姿勢をとり、各独房からいっせいに液体放流の音が聞こえてくるという寸法である。ご参考のため「ジョウセイ」というのを漢字で書いてみると「上青」となる。それから、大便は夜の九時から明朝の五時までの間にせよとのこと。いやはや、軍人ともなれば、万事が号令のもとに行われているから、こういう生理現象も号令に従うようになるとでも思っているのであろうか。とにかく、こんなバカなまねをやっているようでは、日本の軍隊もだめだと思った。憲兵隊におけるこうした迫害のさなかにも、夜ひそかに私の陰惨な独房を訪ねて大いに私を慰めてくれた憲兵の一兵士があった。彼は私に言った。
 「昔から国事に奔走して投獄された志士はたくさんあります。政治家として信念をまげずこんな目にあわされたのは、ほんとうにお気の毒です。しかし先生、死んではいけませんよ。あくまでがんばってください。私が立番している間にこの新聞を見てください」
この憲兵上等兵は、徳島県阿波郡大俣村の篤農家で、いもづくりの名人だそうだ。
 政治家は入牢するも国のため されど死ぬなと彼はげませり
 あれからもう二十六年だ。このよき人はどうしていることだろうか。

 九 秘密軍法会議
 いよいよ、その日が来た。昭和二十年四月二十六日、三つの罪名をかぶせられた一国会議員が陸軍の手で断罪される臨時軍法会議は、拘禁所内の殺風景な一室で行なわれた。
その朝、丸一ヶ月以上もそらなかった髭をそってくれて、獄衣をもとの国民服にかえるように命じた。あの汚い姿では、取り調べの役人も胸が悪くなるからであろう。髭そりの際、一ヶ月ぶりに鏡で自分の顔を見た。それは無精髭の中から二つの眼がまだぎらぎらと光り続け、青白い面上にも不屈の精神が失われずにいるのがわかって、とてもうれしかった。そして心中おのずから安らぎを覚えた。まだやれると思って、外気を胸いっぱいに吸って、法廷にはいった。
 私ひとりだけが被告席に直立不動の姿勢をさせられ、正面には民間の検事あがりだという中尉の襟章をつけた男が横柄なつら構えをしてすわっていた。これが法務官といって陸軍を代表して私を取り調べ、また論告する検事という役どころである。その横には将官級の陸軍将校がふたり陪席判事がわりに来ていて、ひとりはすわり、ひとりは立っていた。そのほかに同席しているのは、みな陸軍の関係者ばかりである。私は予想外の事態に歯がみをした。傍聴人を通して戦局の実情を広く国民に知らせたいという私のひそかな計画は、ここで完全に裏をかかれてしまったのだ。
 そうして、二時間余りにわたって行なわれたのは、裁判における取り調べというよりも、私一個人に対する人身攻撃に等しいものであった。だが、私の立場がいかに弱く、引かれ者の小唄のようであっても、言うべきことだけは言わずにはいられなかった。
 「これは正式な裁判ではない。だいたい現役の衆議院議員に対して一般の傍聴を許さないのみならず被告側の証人も弁護士も立てさせず、しかも、憲法で認められている一審、二審、三審の上告もさせないというのはどういうことなのか。ぼくは軍人ではなく市民である。軍法会議にかけること自体がおかしいではないか。なぜ一般裁判に移さないのか?」
後に聞いたところでは、私の件に関して、これは法律的にも民間の一般的裁判にかけるべきだから当方によこせと、小倉裁判所から再三掛け合ったのだが、軍部は頑としてこれを拒否したのだそうだ。
 「そもそもの話が、皇室不敬罪とはいかなる証拠あってのことか、はっきり言ってもらいたい」と、私は続けて言った。
 「きみは、ある宮さまをほめちぎったことがあるだろう」と、法務官が言うので、私は答えた。
 「そうだ、高松宮さまをほめた」
 「どうしてほめたのか?」
 「それは、高松宮さまが東条さんに、もうこのへんで辞職して、天皇に対しても国民に対しても責任をとるべきではないかと言われたので、それまでは頑として動かず、不利な戦況をひた隠しにしていた東条さんが、宮さまの鶴の一声でやめた。それでほめたのだ」
「その時、きみは「あんな賢明な宮さまはいない」と言った。となると、他の宮さまは皆バカだということになる。つまり、皇室がたを比較して品定めをしたのだ」あまりのばからしさにあいた口がふさがらぬ思いであったが、
 「では、お尋ねするが、お宅の坊ちゃんはほんとうに日本一かわいいと言ったら、ほかの坊やはみんな憎たらしいということになるのか! これが日本人が人をほめる時に使うことばの慣習ではないのか。それに、造言蜚語罪、これもおかしい。造言蜚語というのは事実にあらざることを事実のごとく宣伝して人心を惑わした場合のことで、ぼくの言ったことはみんな事実なのだ。日本はこれ以上戦争を続けていたら、国を滅ぼすことになる。武器・資材も欠乏し、連合艦隊は壊滅に近い。だから早くやめたほうがいいと言った。ぼくの言うことにまちがいがあるなら調べてみるがいい」
 これには法務官はじめ、並みいる将官たちもたじろいだ様子であった。しかし、すぐに私は手痛い逆襲を受けた。
 「きみの言っていることが事実だとすれば、それを裏付ける正確な資料はどこから手に入れたのか?」
 私はその情報資料を国会議員仲間の親しい連中から得たのだが、その中には陸海軍退役の中将や少将が数名いるので、それを明かしたら彼らも捕縛されてしまう。これは口が裂けても言えないので、「事実であることにまちがいないが、どこから得たかは言うわけにはゆかぬ」と答えた。すると、「きみの言っていることはごまかしだ」というわけで、彼らが作成した判決文がまたふるっていた。
 「タトヒ事実ヲ事実ノママ発表シタルモ、ソノ結果ガ多クノ人心ヲ動揺セシムレバ、コレ造言蜚語罪ナリ」
 私はもはやこれまでと観念したものの、憤りが激しく噴出した。
 「きみたちのやっていることは、もう常識ではない。はっきり申しあげよう。これはぼくが軍部を批判したことに対する復讐だと思う。復讐ならもっと男らしくやるがいい! 三年でも五年でもきみらの言うとおりに受けよう。断罪するなら、存分にするがよかろう」
かくして、即決、懲役三年という判決が言い渡された。

 一〇 獄中の獄
 昭和二十年の春もたけなわ、私は四十六才であった。過去半生は父吉田磯吉の精神的、物質的な遺産のおかげで、まことにゆったりと心豊かな生活であったのが、一朝にして、獄舎のムシロにつく身となったのである。
 「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます」と、もだえ叫んだヨブの信仰の万分の一でも、この時の私にあったなら、いや、せめて「ヨセフは監獄にいた。しかし、主は彼とともにおられて」という旧約の物語に親しんでいたとすれば、これからの数か月にわたる獄中生活はもっと別な様相を呈したかもしれない。しかし、私にはキリスト教的な信仰のひとかけらもなかった。だからこそ、私のようなしたたか者を招くために、神はこんなにもきびしい荒療治をされたのであろうか。
 陸軍の拘禁所から藤崎の刑務所に送られた時のことは、今もありありと思い出す。そのころ犯罪人を護送する時には、編笠をかぶせて当人の顔を人目から守ったものだが、私に対してはそんな心づかいどころか、逆に衆目を集めるような扱いであった。手じょうをかけた上から亀甲型に胸から背へとなわで縛る。かの安政の大獄の折に頼三樹三郎が幕府の手に捕えられた時の姿をそのままに、なるべく人通りの多い道をゆっくりと歩かせられた。軍部にタテつく者はこのとおりだぞ、という見せしめのためでもあったのだろう。
 刑務所に着くと、コンクリートの土間の上で、着てきたものを全部脱がされ、一枚のシャツと肩も足の部分も破れたまっかな獄衣を着せられた。そして、独房にたたき込まれるという順序になるが、その独房なるものも並みのものではない。見るからに重苦しい赤レンガづくりの建物のまん中に廊下が走り、両側に一階二階の各房が並んでいるが、その中でもとりわけ小さな汚れた独房が私にあてられた。しかも、そこの入り口だけが鉄のとびらになっていて、コンクリートの壁や天井が板張りの床をもつ小さな部屋をいっそう狭く見せている。たった一ヵ所だけ、顔がやっと届く高さに小さな窓があけられていて、これが外気に通じる主なる換気口となっていた。
 看守は私をその独房へ押し込むや、背後から鉄のとびらを勢いこめてしめた。その重々しい音が監獄の中に響きわたった。ガチャがチャとかぎをかけて、足音が遠ざかってゆく。その瞬間、全身の毛穴から監獄の陰惨な空気がしみ込んでくるような気がした。
(おれも、いよいよ落ちるところまで、落ちて来たんだな)
 なんとも言えないいやな気持ちであったが、心の底には、国のためにここまで戦ってきたのだから、という誇りがデンとあぐらをかいていた。
 それにしても、この獄房での待遇は非人道的などというなまやさしいものではない。房の入り口には「厳正独居」と朱書した札がかかっていて、この中の囚人は国事犯だから「国賊」である、殺してもいいヤツだ、というしるしなのである。まさに「獄中の獄」なのであった。同じ「厳正独居」であしらわれている者は、私のほかにも十七、八人いた。韓国人がひとり、キリスト教の牧師がひとり、そのほかにアメリカやイギリス兵の捕虜などもいた。
 「国賊」扱いは、まず侮辱のかぎりをつくして、人間としての誇りを剥ぎ取ることから始まった。毎日、朝が来ると、われわれ囚人たちは真っ裸で房の入り口に立たされる。それも、両手を水平に上げ、またを広げて、まるでハリツケにされたようなかっこうで、男のもちものもあらわにしたまま、大きく口をあけていなければならない。からだのどこにも何も隠していないことを確かめるための検査なのだが、これが看守たちにとってはおもしろい見世物になっているようであった。四、五人がぞろりとやって来て、侮辱の目で眺めまわしては、卑しい暴言を浴びせかけるのだ。
 「こいつ、外では代議士づらして、偉そうなことを言いおったが、なんだ、そのかっこうは! 」
 それから房の中にはいり、衣服から夜具などを全部調べる。これを毎日くり返すのである。
 東条軍閥の弾圧のもとに、自刃して果てたあの中野正剛氏なんかが、こういう侮辱を受けたら、その場で腹を切って死んだにちがいない。しかし、私には死ねない理由があった。(今に見ろ、ここを出たら、思いっきり復讐してやるぞ!)
 まだ血気盛んな壮年の時である。日ごとに受ける恥辱が、そのつど復讐の一念に変わり、積もり積もって行くのだった。
 何日か前、憲兵隊の留置所で、「七つボタンの予科練」を脱走して捕えられた少年が、竹刀でピシッ、ピシッとなぐられ、「おかあさん!」と泣き叫んでいた悲鳴が今でも耳にこびりついている。また、戦場でりっぱな勲功をたてた多くの兵士が、わずかな過失から護送され、ウムを言わさず軍法会議にかけられて、次々と監獄に送りこまれてくる。
 (軍部は、いったいどこと戦争しているのか! ヤツらのやっていることは戦力の自滅行為ではないか!)
 私個人に加えられた数々の侮辱もさることながら、多数の人命をそこない、国を破滅に導きながら、自己反省のかけらも見せぬ軍閥とその一味徒党に対する憤りと憎しみは燃えさかるばかりだった。
 (ヤツらをどんなめにあわせて殺してやろうか)
 私は、独房の中にじっとすわっていられなかった。檻に捕われた猛獣のように、狭い独房の中を行ったり来たりした。落ち着こうと思っても、頭に血がのぼって、どうすることもできなかった。赤れんが左右にならぶ独房に 死体焼場をふと想いたり

 一一 死の待合室
 軍部に対する怒りと復讐の一念が、心身のすべてを侵して、私はついに病気になった。
監獄の食事のひどさも、病気の大きな原因であった。外でさえ日々の食糧をやっとつないでいた時代である。「厳正独居」の囚人の食事は最悪の状態に落ちていった。大豆かすに米麦を一割ぐらい混ぜた「めし」、さつまいもの葉が二、三枚浮いている水みたいな「みそしる」、やがては、いもの葉もなくなり、裏の海岸で拾ってきたらしいえたいの知れない海草がはいってくる。丈夫な歯でどんなにかんでもかみ切れない古畳のようなひどいもので、おまけに細かい砂がはいっている。そのために下痢をする。医者はおらず、看守代理の古い囚人が持ってくるハミガキ粉のような薬では、なおるはずがないから絶食以外に方法がない。絶食すると、三、四日で下痢は止まるが、からだが衰弱するので、再び食べる。また下痢をする。絶食する、こういう悪循環を数回繰りかえしているうちに、私のような頑健な者でも、極度の栄養失調になり、発熱するに至った。

 しかし、国賊待遇の私には、病気治療のための保釈出獄など絶対許されない。それどころか、たとえ獄死することになっても、家族との面会さえ許されないのであった。
かくばかり長き別れとなるならば 子らの寝顔も見おくべかりし
獄死をも考えたその折りの獄中吟の一首である。

 さて、私は「病監」に入れられた。「病監」とは刑務所の中の病院にあたるのだが、これがまた、さながらこの世の地獄と言っても言い過ぎではないすさまじさであった。聞くところによると、当時この病監では二日に三人の割で死人が出るとのことであった。
 私の独房の前が雑居房になっていて、白木綿の丹前みたいな衣服の肺病患者が何人も入れられて、日夜うめき苦しんでいた。彼らのうちから、夜半に発狂して、耳をつんざくような叫び声をあげるものがでる。看守がバタバタと駆けつけ、発狂者をとらえてなぐったりけったりしたあげく立ち去る。翌朝になると、そこには死骸が横たわっている。
 また、栄養失調になった者は、ちょうど地獄絵中の餓鬼さながらで、青膨れた顔、骨と皮ばかりのからだがえもんかけからぶら下がったようになり、腹だけは炎症のためにふくれあがっているのだ。そんなからだが何かにぶつかると、パタリと倒れ、そのままこと切れる。
 監獄の中には、もう棺おけを作る板やくぎがなくなっていた。外から取り寄せるためには二、三日待たねばならぬ。その間放置された死骸からはなんともいえぬ死臭がただよってくる。
 夜など、独房の中に横たわっていると、死のにおいが私の上にもおおいかぶさってきて、いやがおうでも悟らざるを得ないのだ。
 「おれの命も長くはないな、あと一月、いや、半月もつか」そしてだれにともなく、ひとりつぶやく。
 「ここでは、ただ死を待つほかないのか! そうだ、この独房は死の待合室だ、みんな死へ行く列車を待っているのだ」
 入獄当初のあの復讐の精神は変わらなかったが、もはやからだがいうことをきかなくなった。私は考えた。
 (いやしくも天下の大親分と言われた吉田磯吉のむすこが糧食の欠乏や病気で倒れるにしても、国のために死を賭したのだ。この期に及んで、人を恨んだり、しかも泣き言を言って死んだのではいい恥さらしだ。男としては三文の値打ちもないではないか)
私は、父やその生きてきた任侠の世界で、男らしい死に方とはマナイタの上のコイのようにいさぎよくなければならぬ、と教育されてきたのである。よし、死を迎える準備をしようとハラをきめた。

 一二 聖書は地獄の火で読め
 私は入獄の年までは、熱心な真宗の門徒であった。父も西念寺という真宗の寺の門徒総代であった。父の死後、私が総代を受け継いでいた。しかも、学生時代から親鸞上人に傾倒していて、「浄土三部経」を精読していた。
 監獄の中には小さな図書室があり、たまたま「三部経」があったので、これを貸してもらった。「大無量寿経」と「観無量寿経」それに「阿弥陀経」の三部からなっている。国事犯には四冊までは借りることができたので、あとの一冊は「聖書」を選んだ。この聖書は、おそらく大正の初めころ出版されたものであろう、表紙もボロボロになり、中の紙は茶色にやけて、ゴツい活字を並べた「新約聖書」であった。
 私は、病床に腹ばいながら、右に「聖書」、左に「三部経」を置いて、交互に読んでいくことにした。とにかく、死の覚悟と、死後の生命に対する確固たる信念を持って、安心立命の境地に達しなければというのっぴきならぬ必要に迫られていたから、真剣だった。
ところが、昼間は横になって読めるが、夜になると電燈が暗いので、赤茶けた紙と活字の境が見えなくなる。囚人の首つり自殺の予防をするため、電燈はコードを使わず、十五燭ぐらいの小さな電球が高いコンクリートの天井に埋め込んであるからなおさら暗いのだ。
死は刻々と迫りつつある。私に残された時間はいくらもない。
 やむなく、私は夜「聖書」を読む時は、立って本をできるだけ電燈に近づけて読むことにした。だが、栄養失調で足はふらふらしている。十分か十五分もたつと、目はくらみ、手は疲れ、足はからだをささえて要られなくなる。三十分ほどねころんでから、また精力をふりしぼって立ち上がり、読む。こうして、立ったり、寝たりして、必死の思いで「聖書」を読み進めて行った。
 たしか内村鑑三先生だったと思うが、「聖書を読むのに一番適した灯は、地獄の火だ」と書いておられた。これを私はずっとのちに知ったのだが、まさしく地獄の火で、私は聖書を読ませてもらったのであった。
 ある日、私は聖書の中の一ヵ所にさしかかって、電気に触れたようにがく然とした。それはローマ人への手紙の一二章であった。
 「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」

 一三 神の怒りに任せよ
 死を目前にして、私は全力をふりしぼって聖書を読んだ。といってもはじめから聖書のことばをすべてすなおに受け取っていたわけではない、どちらかといえば聖書の字句になれていないので、さっぱり興味が湧かなかったり、時には批判的なというか、えこじな抵抗を感じたりして、色々な雑念につきまとわれた。たとえば、新約聖書の最初にぶつかるあの長々と続くイエス・キリストの系図には全くうんざりとした。
 「アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」と数十名の名が連記してあるが、どの名前も私には親しみのないものばかりであり、あきあきとさせられてしまった。また、聖書の中に出てくる地名や、割札とやら言うおかしなユダヤの習慣等も何のことだかわけがわからない。したがって聖書への興味があまり持てない。それにひどく痛めつけられて、火のごとく心中がかっかっと燃えている私には、どうも聖句を素直に受け取るにはふさわしい心境ではなかった。
 「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」(ローマ一二・一二、一三)(なるほどすばらしい教えだが、こんなどん底に落ちては望みをいだくことも旅人をもてなすわけにもいくまい)。さらに一四節の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(それはあまりにもおやさしすぎる教えだ。死の寸前まで追いつめられている者にとっては、とても甘すぎることばとしか受け取れない。こんなひどい目にあわされている者には、相手をのろうな、いや祝福しろなんていうのは土台無理な話だ)。こうした読み方をしているうちに、次の一六節以下の「高ぶった思いを持たず自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と、このローマ人への手紙の一二章の終わりまで読んでいくうちに、こうしたつぶやきや反抗心はピタリと泊まってしまった。
 これは聖書の中でもよく知られている個所である。その時の私にとってはこのみことばは今までに読んだどんなに偉い人のことばにもなかった不思議な力をもって押し迫ってくるようだった。復讐は何もかもごぞんじである絶対者、神様がすべきことであって、相対的な人間どうしが互いに非難したり、さばいたりすべきではない、それらはすべて神様が最後に処置してくださるのだ、という深い真理に触れた時、あたかも三斗の冷水を頭から浴びせられたような気持ちがした。
 胸の中に、それまで地獄の火のように燃え盛っていた軍部への密告者や迫害者たちに対する怒り、のろい、恨み、復讐の執念などが、いっぺんにスーッと消えてゆくような気がした。重苦しい胸のつかえがとれて、なんとも言えないすがすがしい気分になった。
私は豁然と目が開かれたのである。復讐などという愚かな行為はすべきでない。たとえそれを遂行できる場に立ったとしても、私にはもはやできない。そんなことよりも、自分があの世に送られる時が間近に迫っていることに、思いを専念しなければならない。(そうだ、これだ! 聖書の教えは、なんと偉大なのだ! これで安んじて死ねるぞ。ところで、「祈れ」と書いてあったな)
 真宗では、祈ることもあまり勧められていないのである。だが、私は祈ってみたくなった。だがどうして祈るのかわからない。しかたがないからたどたどしいことばだが口から出てくるのに任せた。
 「神様、今はじめてキリスト教の愛というものがわかりました。私は安らかな気持ちで死にたいのですが。あなたに、いっさいをお任せいたします」
 おぼつかない祈りであったが、そのあとの精神のさわやかさはたとえようもないほどであった。そこで私は「浄土三部経」はしばらくおいて、聖書を読むことに全力を集中し、死の準備に精魂を傾けた。
 ところが、私の予期しないことが起こった。死の準備がいつのまにか、健康回復法になっていたのである。微熱がとれ、空腹をおぼえるほどになった。だが、むろん食うものはない。
 ある夜半、鉄のとびらの向こうで人の声がするので、目がさめた。
 「だれだ?」
 「シッ、静かに。私は同じ囚人だけど、病監の世話係をしとるのです。私は吉田家に出入りをしている魚屋のせがれでしてね、実はあなたの先代の吉田親分にたいへんお世話になった者です」
 「ほう! これは不思議な縁だなあ」
 「いや、もう、びっくりしたのなんのって、現役の代議士が監獄にはいってると聞いたので、調べてみたら、あんた、吉田磯吉親分のむすこさんじゃないですか! 先生、このままじゃ、栄養失調でオダブツになっちまうから、これを飲みなさい」
 ヤギの乳を混ぜた豆乳であった。ありがたかった。
 「これから毎晩、こっそり持ってきますからね、先生、がんばってくださいよ」と、魚屋のせがれは言った。
 この時、しみじみと、おやじの徳というのはたいしたものだ、と思った。
 先代は偉大の人ぞここにして 恩義をうけし人のなほあり
 同時に、これはどういうことになったのだろう、と首をひねらざるを得なかった。
 (おれは、神様に命を救ってくれと祈ったんじゃない。地獄に行くか天国に行くかわからぬが、とにかく死ぬ準備をするために、生まれてはじめて神様に手を合わせたんだのに)

 一四 赤い獄衣の天使
 どんな宗教でも、信仰生活の上では教理より体験とか実感のほうがより重要なのではあるまいか。まあ、私の体験を聞いてほしい。

 不思議なくらいに急速にからだに元気がついてきて、一週間もすると、すっかり栄養失調から回復した。そこで、もとの一般監獄の独房に帰された。私は「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」というこの聖書の教えを実践することにした。
さて、迫害者たちは、「吉田敬太郎のヤツ、いじめ殺してやろうと思ったのにうまくいかん」というわけで、兵糧攻めにかかってきた。もともと乏しい食事が最悪の状態に落とされた。しかも、私は再び下痢を起こすまいと、汁の上のほうだけしか飲まなかったので飢えはいよいよ激しくなった。魚屋のせがれも一般監獄のほうへはやって来られない。そのままでいったら、まちがいなく、私は飢え死にしたことであろう。

 しかし、不思議なことが起こった。
 ある夕暮れ、独房の中が闇に包まれようとするひとときのわびしさも手伝い、私はひもじさに耐えきれなくなった。私は祈った。聖書に「信じて祈れば必ずこたえられる」と教えられているので、そのとおりにしたのである。荒ムシロの上に正座して、祈り方も知らぬままに、声を張りあげた。
 「カミサマ! 腹がへっております、何か食べるものをください!」まことに稚拙な、祈りとは言えぬ祈りである。
 その瞬間、背後の高い窓から何かがほうり込まれ、ひざのあたりにコロコロところがってきた。目をあけてみると、赤い小さなトマトが三つ四つ目に飛び込んできた。だれが投げ入れてくれたのだろうと、即座にそれを手につかんで、鉄格子の窓から外を見ると、向こうで手をあげてあいさつする者がいた。それは、私と同じような赤い獄衣を着た十四、五人の囚人のひとりであった。朝から監獄の裏の畑で農作業をやってきて、看守に引率され、それぞれの雑居房に帰る途中なのである。彼らは、私が飢えていることを知っているので、畑から盗んできたトマトを、看守の目をかすめて高窓から投げ入れてくれたのであった。
 獄窓は、親指くらいの太さの鉄の棒がたてに幾本かはめられた上に、そのまた外がわに小さな鉄の金網がはりめぐらされているのだから、普通なら投げ込むことはできない。しかし幸いなことに金網が風雨で腐蝕して数ヶ所穴があいていたので、そこから投げ込まれたらしい。でもよくあの距離から歩きながら、小さな穴を通して投げ込めたものだと不思議な感にうたれた。それに囚人が囚人にこんな食を与えることは厳禁されている。もし看守の目にとまれば、当人も反則として罰を受けるのだから、それを覚悟の上である。かつまたポケットも何もない獄衣のどこに隠し持ってきたのであろうか。私が手を振ると、彼もニッコリ笑った。
 聖書やいろいろな本によると、天使とは光り輝くばかりの白衣を着て、背には大きな翼を持つ美青年のようであるが、私に神がつかわされた天使は、ボロボロの赤い獄衣をまとった垢まみれの若者であった。

 私は、その時に、これは単なる偶然などではなく、神様は至る所に御使いを派遣して、信ずる者に守りを与えられるのだということを、身をもって体験したのである。
 天使(みつかい)は姿をかへてつぎつぎと われに来たりて励ましたまひぬ

 一五 獄中でむし焼き
 すでに六月も半ばを越していた。空腹と暑さで眠られぬ夜が続いた。ある夜、祈り疲れて横になりうとうとしていると、かすかなノックの音で目がさめた。
 「先生、先生、起きなさい」
 監獄の中では私は「四二四」という番号でしか呼ばれたことがないので、不思議に思って顔をあげると、「これを」という声とともに、正面の鉄とびらの下にきざまれた細長い換気口からきたない古新聞紙にくるんだハガキ大ぐらいの平たいものを差し入れてきた。あけてみると、みそを手のひらでたたいて固く平らにしたものである。食糧係の囚人が炊事場から持ってきてくれたのであろうが、こんなところまで、夜半によくやって来られたものだと、不思議に思った。
 このみそで、三日ほどは飢えをしのげた。それも、毎朝の裸はりつけ検査があるから、うわぶとんの一部を裂いてその中に隠しながらであった。また、ある夜、ひとりの看守が私の独房を訪れた。鉄とびらをあけて入ってくるなり、私の顔を見つめて、「ぼくがわかりませんか?」と言う。
 「こんな監獄の看守になんか知人はいないよ」「ぼくですよ、先生」
 看守は帽子を脱いだ。やっと思い出した。かなり前のことだが、若松港に鶴丸汽船という船会社があり、そこでストライキが起こった。その首謀者となったのがこの男で、危うくクビになるところ、私の口ききでことなきを得たのであった。
 その船乗りが、こんな監獄の看守となり、サーベルを下げ、腰にピストルを帯び、肩にいかめしい金モールなどつけていようとは、思いも及ばなかった。
 「おお、きみか!」
 「きみか、もないもんですよ、ときに、先生、だいぶ弱られておるようですが、奥さんとの連絡はとれましたか?」
 「とれるもんか。もう、まる四ヵ月、全く音信不通だ」
 「じゃ、わたしが仲立ちしますから、手紙を書いてください」
 「紙も筆もないよ」
 「ここに、わたしの手帳と鉛筆があります」
 こうして、入獄以来はじめて妻との精神的交流ができた。
 妻の手紙によると、家族は皆無事であり、娘の通学している西南女学院の原院長に来てもらって、家族全部でキリスト教の話を聞いている。おとうさんも獄中で聖書を読んでいるそうですが、しっかり信仰をつちかってください、と激励までしてきた。
看守である私の友は、さらに私の栄養失調を救うために、ひそかにさまざまな策をめぐらして、卵、乾パン、しまいにはぶどう酒まで鉄のとびら越しに送り込んでくれたりした。
さて、兵糧攻めからようやく救い出されたが、苦難は次々と押し迫って来た。今度は火の苦しみだ。
 六月十九日、全福岡市が焦土と化した、あのB29の大空襲の夜、この監獄の上にも爆弾の雨は容赦なく降った。実にけしからぬことだがいつも空襲警報が鳴ると囚人たちは裏の松林に待避させられるのに、私たち十七、八名の「厳正独居」囚人は閉じ込められたままにほうっておかれるのである。
 やがて、私の独居房から三メートルほどの道を境にした隣の建物に直撃弾が落ちて大火災となった。こちらはさすがに半メートル厚さぐらいのレンガ壁で囲まれているので、燃え移る心配はないが、高窓は木製のわくなので、たちまちまっかに焼け爛れ、今にも落ちんばかりになった。煙はどんどんはいってくる。あちこちの独房に残された人たちの怒号や泣き叫ぶ声が煙の中から聞こえた。そして必死になって鉄のとびらをたたき、からだごとぶつけている響きまでも克明に聞こえた。私も二、三度ばかりやってみたが、ビクともしない。房の中はどんどん熱くなってくる。私はたまりかねて、そばにあった洗顔用水を焼けている窓にぶっかけた。そのとたん、ガラスが破れ、猛火と白煙がドッと吹き込んできた。あわてて、せんべいぶとん一枚を頭からかぶって、床に腹ばいになって窒息死を免れようとした。
 「いよいよここで蒸し焼きになってわが人生全巻の終わりか!」
 助けを呼んだとて、どうなるものでもない。ここまで耐えてきたのに、こんなみじめな死に方をするのは無念やるかたないことだが、これも運命とあきらめて、神様にお任せするよりほかはない。しかし聖書に教えを受けてはいたものの、まだほんものの信仰になっていなかった。煙にむせび、床にうつ伏していたが、悔し涙が流れて止めることができなかった。
 そして額には油汗がにじみ出、しだいに息苦しくなってきた。こうした人間のなまの蒸し焼きを、松原の防空壕の中から大ぜいの囚人たちが見物しているので、さすがに放置できなく思ったのであろうか。看守たちが駆けつけて来た。

 一六 紋付きとはかまで出獄
 「九死に一生を得た」ということばがあるが、私の場合、それが一度ならず、二度も三度も起こっているのである。
 まず第一に、病監の「死の待合室」で救われ、次に兵糧攻めで救われ、そして、この獄中での蒸し焼きからも、あわやというところで救われた。これが単なる偶然からではなかったことは、前にもお伝えしたとおりである。
 その空襲の夜、私は狭い独房の中で火と煙に巻かれ、せんべいぶとんをかぶって、無念の涙のうちにうつ伏せになりながら、「神さま、こんな状態で謀殺されるのは、まことに遺憾ですが、もう、どうにもなりません。私の運命をお任せします」と、祈った。
背中がジリジリと熱くなり、耐えられぬほどになった。
 その時、ガチャガチャとかぎの音がして、とびらが開き、十人ばかりの看守が煙をくぐってはいってきた。各独房の囚人たちに声をかけ、「出ろ!」と言う。ヤレヤレ、これで助かったと、外に出るや、白煙のうずまきの中に整列させられた。まさかこんな時に、と思ったが、厳正独居の囚人に対する言語道断な仕打ちは徹底していた。十七、八人の囚人が両隣どうしに手じょうでつながれ、逃げるには、カニのように横ばいに走らねばならなかったのである。
 私は房を出る時、とっさにふとんをかぶってきたので、火炎をくぐっても火傷一つ負わず、また、便所用のわらぞうりをはいてきたので、ガラスの破片で足を傷つけることもなく、「九死に一生を得た」のであった。
 やがて八月十五日、あの終戦の詔勅が下された時、私は火災後に移された二階の独房で、天皇の声を聞くことになった。ラジオが悪いため何を言っているのかさっぱりわからなかったが、とにかく、日本が戦争に負けたということはわかった。はからずも私の目から涙があふれ出た。それ見ろ、おれの言ったとおりだという気持ちと日本が無条件降伏という、建国以来かつてないみじめな負け方をした、自分たちが微力ながら国家の進退のためにずいぶん尽くしたが、その労もむなしく、まだこんな監獄の中でくすぶっているのかという感慨など、悲喜こもごもなんとも言えぬ心境で一夜を寝ずに明かした。
敗戦に涙はすれどこのいくさ かえりみすれば 天刑とぞ思ふ

 翌日、数名の看守がぞろぞろと私のところへやってきた。さんざん私を虐待し、私を呼ぶにも番号だとか、「ヨシダ、ヨシダ」と呼び捨てにしていた連中が、この日は「先生、先生」である。「何だ」と言うと、彼らは口をそろえて、「先生、あなたは代議士で、国家のことについて広い知識を持っておられる。今、町ん中は大騒動です。敵軍が上陸してきたら、みんな殺される。女子供はどんな目にあわされるかわからないというので、食糧を持ってあちらこちらに逃げ出しました。私らは看守としてあなたがたの番をしなければなりません。そこで、先生、女房や子供たちは逃がしたほうがいいでしょうか、どうでしょうか?」と言うのである。私は笑って、言った。

 「ぼくだって、ここにもう何ヵ月もほうり込まれていて、世の中のことはわからんから、確たることは言えないが、ぼくが思うには、支那とソ連は軍艦を持っていない。だから、上陸してくるのはアメリカだけだろう。それならそう心配することはないよ。アメリカ人はめったやたらなことはせんから、逃げ出す必要もないだろう」

 ところが、その翌日、焼野原を何時間も歩いて、妻が私に会いにやって来た。空襲を受けた私の身の上を心配して安否を確かめるためと、もう一つは敵軍の上陸に対し家族の身のふりかたを私に相談するためであった。それで、彼女の口からも同じ質問がとび出した。「おとうさん、みんな逃げていますけど、私たちはどうしましょうか?」
 「困ったなあ、わしは、あんたたちに逃げなさいと言いたいけれど、ここの看守たちの家族には逃げるなと言った手前、二枚舌を使うことになる。まあ、わしにだまされたと思って逃げんでおってみなさい」

 それで、私の家族は若松市内に留まることになった。そのころの市内には幾つかの笑い話がある。さる名士がひげをそったり、女の着物を頭からかぶって逃げたり、かと思うと、女が男装したりして、上を下への大騒ぎだったそうである。
 さて、終戦後に移された二階の独房は静かで、日当たりもよく、夜は蚊の猛襲をくらうこともなく、たっぷり読書の時間もとれ、私は気合いを入れて、出獄の日まで聖書その他の本格的な勉強をした。
 獄中のわがたのしみは朝夕に 聖書読み 又夜は祈ること

私の出獄は、東京の弟からひそかに十月の九日と内報がはいっていた。終戦の日から二ヶ月近くを留め置かれるのだ。なぜこんなに遅れたのかというと、なんでも米軍側がつまらぬ投書を信じて私を右翼の人物かのように誤解し、日本側の釈放希望と話合いに手間取ったよしである。刑期三年と腹をすえていた間はともかくも、出獄があと何日と明らかにされてくると、にわかに心がぐらつき始め、腰が落ち着かぬようになった。
 釈放のとき間近しとききしより にはかに長し日の暮るるまで

 いよいよ待望の日、まさに独房を出ようとする早朝、私は獄中で借覧していたあの古ぼけた聖書ともいよいよ今朝でお別れかと思うと、なんとなくこの手垢によごれた一冊の書物にも親しい惜別の情がにじみ出て、これをひざの上にのせて両手を重ねて、静かに祈った。「君とも、いよいよお別れだな、長らく最善のお友達となってくれた君と別れることはさびしい、君も健在で、多くの人によき救いのことばを与えてほしい。さて最後の別れに、私になにかよいみことばを与えてもらいたい。神さま、この聖書を上に投げ上げます、そして下に落ちて開いた所のページの中にあなたのみことばを与えてください」そう祈って、私が古い聖書を天井にほうり上げて開かれた所に出た聖句は、なんとガラテヤ人への手紙五章の一節であった。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」

 私は強い感激をもってこの聖句をかみしめたことであった。不思議な書だ。
私は家族に差し入れてもらった紋付きとはかまを身につけて、監獄の門を出た。おりしも澄んだ秋空のもと、文字どおり「青天白日」の思いであった。
 おおらかに讃美歌うたひ獄門を いでたきものぞ 神の子われは

 一七 復讐するは我にあり
 それから約一年半、私は衰えた体力をとり戻すために、自宅で養生した。もう一度衆議院に出ようという政治的な希望よりもむしろ、長い闘争の跡をふり返って見て、自分がまことに不思議な縁でキリスト教に導かれたことに思いを集中していた。
 昭和二十一年八月、娘の通っている西南女学院の教会で、妻とともに洗礼を受けた。この夏から正式にキリスト教の信徒となったわけであるが、私たちの属すべき若松バプテスト教会は、この戦争中に憲兵隊の弾圧で解散させられ、建物も破壊されていたので、信者もゆくえ不明であった。やむなく、私たちは日基教団の浜ノ町教会に客員としてお世話になり、そのかたわら、コツコツと自宅で集会を始めた。祈祷会、そして日曜日の礼拝といった順序で。しかし、牧師もだれもいなかった。それが、やがてひとり帰り、ふたり帰りして、いつのまにか二十名を越すようになり、自宅では狭いから、公会堂の食堂を借りて礼拝をするようになった。
 今の若松教会は、昭和二十三年に土地を買って、再建したのである。バプテスト系では、今日八十年余の歴史を持つ最古参の教会の一つではないかと思う。

 さて、これで、話はメデタシ、メデタシで終わったのではない。

 神さまの働きは、実に測り知れないものがあって、獄中で私を聖書に触れさせ、イエス・キリストの救いにあずからせてくださったが、ただそれだけではなかった。神さまは真実なお方である。この物語も、私が信仰的に召された歩みの記録のみではなく、神さまがこの私を通してどんな働きをなさったかの記録の一つなのである。

 なつかしのわが家に帰り、長い間、土間や板張りの床の生活をしてきた私に、畳の足ざわりはなんとも言えぬ安らぎを与えてくれたし、アルミ食器にとって代わって、塗りのわんや焼き物の湯のみの感触はいかにも平和な気持ちをもたらしてくれた。すべての恩讐を忘れて、ただキリストに従うよき信徒でありたいと、朝に祈り、夕べに感謝する日々が続いていたのである。

 わが家に落ち着いてから、わずか一、二ヶ月たったころであろうか。下のほうの娘ふたりが、「おとうさん、勝った、勝った!」と叫びながら、夕刊を私のところへ持って駆けつけてきた。

 見ると、「元憲兵曹長、強盗および殺人未遂で送検」という記事がデカデカと報じられている。この男はローソクのヤミ取り引きを世話するとだまして、ヤミ商人をおびき出し、裏門司の断崖から突き落とし、半死半生の被害者から数十万円を奪って、妻を捨て若い愛人と四国高知にかけおちしたところを警察につかまったというのである。

 この男こそ、同盟通信のバッジをつけて、国会議員時代の私に、つきまとい、憲兵隊のスパイとして、「皇室不敬罪」、「造言蜚語罪」などの罪状をでっちあげて私を拘引させ、しかも取り調べのしょっぱなに軍服姿で私の前に現われた、あの憲兵曹長のなれの果てだったのである。私を国賊とののしった忠君愛国の軍人としては、なさけない姿をさらしたものだ。「神の怒りに任せなさい」というみことばは、まずここに示された。私はなぜか悲しい思いに打たれた。

 それから二、三ヶ月すると、元憲兵少佐という男が、薬のヤミ取り引きで福岡署に拘留されたというニュースが伝わった。軍刀のつかを両手で握りしめ、「天皇陛下の命により、本官はきさまに土下座を命ずる」とうそぶいた軍服姿を思い出すと、気の毒でならなかった。私はすぐに福岡署を訪れ、面会を申し入れたが、署長は私が何か復讐するのではないかと誤解して会わせなかった。私は聖書を一冊差し入れて辞去した。

 さて、最後に示された神の審判は、まことにきびしいものであった。元西部軍司令官をはじめ秘密軍法会議で私たちをさばいた法務官たちは、例の有名な終戦末期に起こった油山事件、つまり生体解剖の一件(B29を撃墜して捕えた捕虜たちを福岡郊外の油山の山中に連行し、生きたまま解剖に付して、その生肝を一同ですき焼きにして食った)その驚くべき残酷な犯罪を問われたのである。彼らは横浜でアメリカの軍法会議にかけられる身となった。その中には当時の九州大学医学部の教授とか看護婦に至るまでが含まれ、数十名に及ぶ人数であった。

 そして、思いも及ばなかったのだが、この私が捕虜の近くにいたし、法務官たちの冷酷非道な扱い方を体験しているからというので、証人としてその法廷に喚問されたのである。
 法廷で、日系の二世の裁判担当官が出てきて、私に言った。
 「吉田さん、あなたはこの人たちからずいぶん虐待されたのでしょう。したがって、彼らの性格をよく知っておられるはずです。また、あなたのいた独房から塀一つおいた向こうに米軍捕虜が入れられていたのだから、当時の模様を詳しく話してくれませんか」
いろいろ問いただされているうちに、私の証言が被告の罰の軽重をかなり左右するらしいことがわかった。そこで、私はどんな質問に対しても、「知りません」、「それは存じません」で通した。
 「そんなことはないはずです。あなたは、彼らのそばにいたのだから、知らないわけはありません」
 かなりしつこく追求されたのであるが、被告に不利な証言を私はいっさいしなかった。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とのみことばが完全に私を支配していた。それほど入信したころの私は混じりっけのない、きよらかな精神状態で、人間の心もここまで純粋になれるものかと、我ながら自分自身の変わりように驚いたものである。
その結果かどうかわからないが、この裁判の被告のうち、最高責任者の軍司令官は死刑になったのに、他の大部分の者はやや軽い刑ですんだようである。
 こうして、出獄二年足らずのあいだに、驚くべき神のご支配が私たち人間の上にあることを、私はまのあたりに見たのである。

 ローマ人への手紙一二章一九節のみことばを、ここでもう一度より深く、強く肝に銘じた。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」と。以上のごとく、聖書のみことばのとおりに神の審判はここに実現されたのだ。私は恐ろしい感に打たれた。見よ、神は生きて働きたもう、そのものすごい働きを。聖言を軽視することが、いかに愚かな誤りであるか、私は、明らかに自分の目でこれを見たのである。事実を無視することはもうできない。

 一八 新生塾のころ
 話はまだ続く。
 監獄を出るや、私は獄中で世話になった十五、六名ほどの囚人たちを自宅に呼び、「新生塾」という働きの場を提供した。父が残してくれた三千坪ほどの土地が陸軍の高射砲陣地として接収されていたのを、払い下げてもらって、子牛、ヤギ、アンゴラウサギ、ニワトリなどを飼い、昼は畑に出て彼らとともに鍬を握り、鎌をふるって、労働をともにし、夜は市内の白石広重という篤農家を招いて、農業技術の指導や修養会を開いた。
キリスト教精神によって、なんとか彼らをもう一度社会へ復帰できるようにしてやりたいと願ったのだが、前科三犯、4犯といった囚人の更生は非常にむつかしいものであることがよくわかった。

 人はだれでも、生涯のうち最も美しい思い出を持っている。私にとっては、「新生塾」での五年間がそれにあたる。
 朝早くから塾生たちとともに畑で鍬をふるい、夜は彼らの更生を祈りつつ、聖書研究をしたり、農業技術を学んだりという毎日である。そして、塾の建物は、玄界灘を一望のもとに見渡せる丘の上にあった。その青い美しい海を眼下にながめながら、小さい粗末な書斎で、私は好きな読書を思うがままにすることができた。
 新まえのクリスチャンとして、聖書研究には特に熱中した。終戦直後はキリスト教関係の文献はなかなか手に入らず、ずいぶん遠くまで古本の買いあさりに足を運んだものであった。こうして、俗塵を離れた静かな場所で送った晴耕雨読の五年間ほど楽しかったことはない。
 しかし、この思い出を美しいものにしたのは、何よりも、私自身をはじめ、家族たち、ひとりひとりのたましいが新生の喜びに輝いていたためであったと思う。父の時代から広々とした屋敷で、なんの不自由もない、ぜいたくな暮らしをしてきた私には、このバラック兵舎あとの簡素な生活はまことにありがたい薬であった。天井もない掘っ立て小屋だから、風が吹くと屋根うらのゴミやダニが、食べているご飯の中にまで舞い落ちた。むろんのこと、水道はなかったので、水は山の下から、私が六尺棒にさげたおけでかつぎあげた。また、便所は軍隊が使っていただけあって、下半分だけ囲って、天井も壁もないというシロモノで、それも住居から二、三百メートルも離れた草むらの中にあった。冬の寒い晩などのことを思うと、家族もよくしんぼうしてがんばったものだと思う。
 家族といえば、妻をはじめ、まだ年少だった三女、一男まで、乏しい日々によく耐えたばかりでなく、世間のきらう刑務所帰りの荒くれ男たちをよく理解し、つきあってくれたし、若松市から依頼された農地開拓の荒仕事にも、彼らといっしょに鎌や鍬をふるって協力してくれた。
 塾生たちが皆囚人あがりだし、私には二十才の長女と十七才の次女など年ごろの娘などもいたので、警察ではずいぶん心配してくれたが、幸いにして守られて事なきを得たのである。だが、こんなことがあった。よく実った畑の収穫物をあすは金に換えて塾の費用にしようという前の晩、ごっそりとそれをヤミ商人に売って、その金で女郎買いをして逃げた男たちがいた。また、町へ出て行って、吉田という名前で「つけ」でものを買いあさり、そのままゆくえをくらました者もいた。私の信仰が浅かったせいであろう、とにかく、たいへんな苦労もあった「新生塾」であった。
 そして、終戦直後の食糧や衣類の欠乏、ヤミ取り引き、物価騰貴などのさなかでも、幸い主食を除けば、畑ではみんなをまかなってなお余るほどの収穫があった。これら大自然の恵みが、「新生塾」での五年間を豊かに美しく養ってくれたのである。
昭和二十四年三月、若松バプテスト教会の再建に伴い、私ははからずも牧師職を拝命することになった。
 初めは、洗礼を受けてからわずか三年目、信仰歴の浅い私のような者が一教会の指導役など、とても力不足でお引き受けできませんと断わった。しかし、教会員一同のたっての依頼を受け、ついに承諾することにした。「めくら蛇に怖じず」というのか、やれと言われたからといって、よくもやる気になったものだが、そのころの日本のキリスト教会のさびしさをみわたすとき、「枯木も山のにぎわい」かと、私のようなにわか牧師でも何かのお役にたてばと思った。これが正直のところ、私の牧師への召命感だったのである。
 さて、このまま進んでいたなら、新生塾の清らかな生活は、牧師職とともにまだまだ続いたことであろう。
 しかし、人間の生涯のうちには、自分の考えも望みもしないようなことが、向こうから押しかけてくることがままあるものだ。
 神なき人々はこれを運命と言い、神を信ずる人々はこれを神の摂理、または導きと見るであろう。

 一九 牧師、市長選挙に出馬か?!
 昭和二十六年三月、当時の福岡県知事をしておられた杉本勝次さんがひそかに若松まで私を訪ねて来られた。彼は同じ信仰上の友人であり、西南女学院などの学校の理事をしていた関係で、昔からじっこんの間がらであった。その杉本さんが私に、若松市政刷新のためにぜひ市長選に出馬してほしいと強く勧めに来られた。
 「この町は、まるで暴力の町であり、ゴロつきみたいなボスが横行している。あなたのおとうさんのなくなられるころから切った張ったの喧嘩が絶えず、政治家はボスと組んで市政はヤミに包まれているではないか。ここでひとつあなたに出てもらわにゃ、だれが出たってだめですよ。現市長がもう一度やると言えば全くの無競争で当選してしまう。だからぜひ出てほしい。社会党の連中も「清らかな政治を」というモットーだから、全面的に応援するはずです」
 もちろん、私は辞退したのだが、その話がどこからかもれて新聞に出たために、たちまち「吉田が市長選に出馬」といううわさは火の手があがるように広がった。
 教会の中でも賛否両論がうず巻いて、まっ二つに意見が分かれた。
 「牧師が政治に乗り出すなどとんでもない、福音一本槍でゆくべきだ。吉田先生は政治はもうやめたと言っとられたのに、なぜいまさら出てゆくのか。われわれの教会は牧師が政界に出てゆけるほどのんきなものではない。だいいち牧会ができなくなるではないか」
「いや、牧師だからこそ、今は若松市政を建て直すために出るべきである。牧師が政治をやって悪いという理由はない。カルヴァンだってジュネーブの市長をやりながら、牧師を勤めたし、カイパーだってオランダの総理大臣でありながら牧師だったではないか。だいたい反対する者は政治に対する見方がまちがっている。政治はきたないものだと思い込んでいるが、きたないからこそきれいにしてもらおうじゃないか。ことにわれわれは政治は多くの人々に対する愛の奉仕だと考えている。だから先生のような人に出てもらってもいいのじゃないか」
 私は困った。家族もたいへん心配した。断わっても断わっても、毎日毎晩のように出馬せよという人たちが押しかけて来た。そこで私も、これらの情勢と自分の実力について考えてみた。
 私は昭和二十一年の終わりごろから公職追放を受けていて、公に政治や教育の場に出ることができない身であった。それを、こんな不当な追放はないと見たある人たちの尽力で、昭和二十五年の十月に解かれたのである。しかし、監獄にぶち込まれたり追放にあったりした六年間のうちに、父の時代から政党を同じくしていた仲間はほとんど反対陣営に寝返っていた。その中には私が目をかけて育てあげた連中も多かった。彼らは地位や金という甘い蜜に吸い寄せられていったのである。そうした主義も節操もない態度に私は少なからず憤りをおぼえていた。今私を支持する者といえば、父の代からの一門一党と社会党の連中だけだ。それも三十六名の市会議員のうち、社会党の者は六名ぐらいしかいない。しかし、若松市は父の代から三十年間つちかった地盤である。私は寝ていても若松市のすみずみまでわかっていた。まだまだ選挙なら実力では負けないぞと考えるに至った。

 二〇 牧師の顔です!
 そうこうするうちに、いよいよ明日中に立候補を届け出なければ相手候補は独走再選するという時点まで追いつめられてしまった。夜もふけた午前一時ごろ、さむざむとした丘の上の狭い新生塾の家屋内には多くの人たちが詰めかけ、私に再考を促し、出馬を強請していた。とうとう私は意を決して、妻に相談してみた。
 「出馬してみたいのだが」
 「何の目的で出なさるのですか」
 「キリスト教の精神に従って、ほんとうの愛に基づく奉仕がしてみたいのだ」
 「おとうさん、あなたはウソをおっしゃってます。あなた、よく鏡を見てごらんなさい」
 「どう見るのだ? 」
 「あなたは今、新しい政治とか、愛の精神とかキレイなことをおっしゃったけれど、ご自分の目を見てごらんなさい。ギラギラして、戦闘的な精神や復讐心に燃えて、ちょうどあなたが監獄にはいられる前の顔つきとそっくりですよ。あなたは監獄を出られてからここ数年、ほんとに穏やかでやさしい人になり、人相まで変わってきましたけれど、この数日間はまるで昔の目つきです。あなたは愛の奉仕をするよりも、この追放六年の間に受けた忘恩者たちの侮辱や裏切りに反発して出馬しようとなさるのではありませんか」
 「あなたは監獄を出る時、復讐はやめた、そして救われた、とおっしゃったじゃないですか。最初はイエスさまにお従いする、清貧に甘んじるのだと考えておられたのに、離れて行った人たちが県会議員や代議士になって、あなたをいなかのにわか牧師かとバカにするのを見ているうちに、だんだんシャクにさわってきて、先日杉本さんが見えて是非にと勧められた時にハラの中では一つやってみようかという気になったのでしょう。出て、どうなさろうというのですか。また、市長から代議士になって、大臣にでもなろうというのですか。それに、あなたは復讐という精神はきたないものだと言いながら、よくもまあ、そんな気持ちで、この次の聖日に講壇に立てますね」

 私は短刀で心臓をブスリと刺されたような気がした。妻のこのきびしい忠言に身震いし、恥じ、かつ悔いた。ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなかった。
 「そのとおりだ。だれもそれを言ってくれなかった。わしはウソもウソ、大ウソをついていたのだった。わしがキリスト教に転向した時のいちばん大きな約束を破ったわけだ。悪かった。皆さんには、はっきりと辞退することにしよう」
 ふたりがいた四畳半の和室とふすま一つ隔てた隣の板の間には、二、三十名の客がいた。私はふすまをあけて言った。
 「皆さん、たぶんもう、私と家内の話はお聞きになったでしょう。私は牧師としても落第だが、政治家としてもウソをついた。偉そうなことを言ったが、もう一ぺん俗人にもどって、何くそという気持ちだったのです。家内は私の潜在意識を的確に言いあてました。私は今まで踏みつけられた後輩のやつらに、コノャロウ、キサマたちなんかにまだ負けやせんぞという気持ちがたぶんにありました。しかし、今深く反省させられました。皆さんにはお気の毒ですが早く別な候補者を立てて選挙をやってください。私はその任でないから、お断わりしなければなりません」これだけ言って、ふすまをしめて、妻の前にすわり小さな火ばちを中にさし向かいで、ふたりともしばらく黙ったままでいた。妻は私の顔をまじまじと見ていた。私の目には少し涙が残っていたにちがいない。火ばちに手をかざしながら、夜明けを待っているようなぐあいだった。
 どのくらい時間が過ぎたかわからないが突然、妻が口を開いた。
 「おとうさん、やってみたらどうです」
 私はびっくりした。
 「何を言い出すんだ! 先刻、私はあやまったし、あの人たちにも断わったじゃないか。ねばって帰らんのは帰らんのが悪いんだよ。私はもう出ない、とはっきり言ったんだから」
 「そうだけれどね、おとうさん、その顔をもう一ぺん鏡に映してみてごらんなさい」
 「何か墨でもついてるのか? 」
 「そうじゃないんですよ、その顔はりっぱな牧師の顔ですよ」

 二一 汝も行きてそのごとくせよ。
 今しがた選挙出馬に反対した妻が、今度は逆に出ろと言う。
 「ふざけちゃいけないよ。わたしを子供扱いにしとるね。そんなにひやかしてはいけないな。もうはっきりと断わったんだから」
 妻は落ちついて言った。
 「おとうさん、私はもう何十年もいっしょにやってきたんですよ。あなたの政治的手腕は百も承知です。北九州であなたの右に出る者はありますまい。選挙に出ればあなたにはまだ、旧時代の友人も部下もいくらかいるでしょう。金はなくても少しは何とかなるでしょう。やってやれないことはないですよ。ただ私は、あなたの気負い方が尋常でないのを恐れたのです。顔つきや態度などもう明らかに政党屋のものみたいで、ほんとうのクリスチャンの姿ではありませんでしたよ」
 たしかに、妻の言うとおりであった。身近な者の意見はこういう際きびしいが、ありがたいものである。
 その三、四日前にも、西南女学院長の原松太先生から長い手紙が届いた。およそ次のような内容の丁重な反対意見であった。
 あなたは、まだ牧師としては未熟だし、だいいち献身された時、政治は二度とやらないと言われた。あの決意をひるがえさないでほしい。
 そこで、私も長い返事を書き送った。
 私が若松に生まれて、現在もこの町に住んでいることを、とくと考えいただきたい。ルカの福音書一〇章でキリストが語られた「よきサマリヤ人」の話が念頭を去らないのです。若松の市政がいかに腐敗堕落して、そのヤミ政治のために多くの住民たちが苦しんでいるかはご存じだと思います。強盗に襲われ血まみれになって倒れている人のそばを通りかかったサマリヤ人と同じ立場に、私は今立たされているのです。「汝も行きてそのごとくせよ」と言われた主イエスのご命令に従って、私は市政の浄化のために立ち上りたいのです。教会でキレイ事ばかり話していても、窓の外では、たちの悪いボスどもが何をやっているかわかりません。善良な市民たちはどんなに苦しめられていることでしょうか。「汝も行きてそのごとくせよ」、この主のみことばが、私にとって市長選へ出馬する基本的な召命感であり姿勢なのです。

 原先生への手紙に披瀝した私の手紙の本旨には、決して偽りはない。真剣そのものであった。それだけに私は奮い立った。根強い政治悪と戦わねばならぬと思うと、にわかに闘争心がわき上がった。ここに悪魔がつけこむ隙があったのだ。裏切り者たちへの憎しみや復讐心までもが、同時に心の奥深くで燃え広がって行った。そういう心の動きを、妻だけは見のがさなかったのである。
 「でも今のあなたの顔には、自分の非を十分に認めておられる、クリスチャンと心がはっきりとあらわれています。それなら安心です。やらせるなら、若松市長はこの人以外にないと、皆さんがそう思ってくださるのじゃないでしょうか。若松をほんとうによくしようというのでしたら、私も大賛成です。教会でまだ反対の方たちにもよく理解してもらって、みんなで加勢しますよ」
 妻のこのことばを聞いていた隣室の人たちは、にわかに色めき立って、さっとふすまをあけ放ち、口々に大声をあげた。

 「先生、やってくださいよ。奥さんが賛成なさった以上、もう鬼に金棒だ!」「さあ、届けに行こう!」

 二二 「皆さん、これがボーフラだ!」
 かくのごとくして、いよいよ私は市長選挙に立候補することになった。教会でも最後には満場一致でこころよく賛成してくださった。正式に届け出をする前に、私は推挙してくださった人人、特に社会党関係の人々にこう言った。
 「私は、キリスト教の信仰のもとに立たせていただきます。したがってここで、はっきりと申し上げておきますが、公職を欠くことがあってはいけないけれど、私は牧師として教会での奉仕は続けさせていただきますよ。また、政党関係では私はあくまで厳正中立の立場で出させてもらいます。どの政党にも所属いたしません。自分の信念で反対となれば、あなたがたが何と非難なさろうと反対しますから、それはわかってもらえますね。私は猿つかいの綱につながれた、お猿のような姿は断じてがまんできませんから」
 「けっこうですとも」とみな答えた。
 「その自由を与えてくださるなら、やりましょう。それから、選挙の費用はあなたがたから一銭もいただきません。私が自弁します」

 とは言ったものの、実情は無一文に近かった。父のたくさん残してくれた遺産は戦後の略奪同然の財産税で取りあげられ、信託や銀行預金等はすべて封鎖没収されていて、選挙資金なぞ出てこようはずがない。わずかに当時再建の途上にあった私の石油会社を通して、銀行から三十万円ほど借用することができた。軍資金は乏しいが、だが私には、弁論という唯一の武器とキリスト教の信仰に基づく政治理念、それに「万軍の主」という目には見えないが強力なうしろだてがあった。

 相手の井上安五郎さんとは福岡県会議員として、ともに二期八年間、郷土若松から無投票で出してもらった間がらであったが、今回は決戦をいどまねばならないことになった。思えば井上さんとは妙なめぐり合わせで、彼は政友会、私は民政党と、いつも反対の立場におかれてきた。彼は地方政治家としては百戦錬磨の古つわもので、政友会の県幹事長としても手腕力量を示した人で、勝負の相手としては不足はない。私の選挙事務長は、私の母校小倉中学の五期後輩であった古賀元市議が進んで担当し、参謀長としては、「選挙の神さま」とうたわれた、これも元市議の福田三雄君が采配をふるい、周到緻密な地盤固めから票読みを行ない、堅実で果敢なる運動を展開してくれた。また私に対する市民の同情と理解も予想以上に大きかった。しかも皮肉なことに、もちろんこれは井上さんの意に反してのことなのであろうが、彼のほうの運動員が私の公開演説を妨害したり、きたない野次を入れたりすることが、かえって一般市民の同情をこちらに集める結果となった。
そればかりではない、不利な条件がことごとく益となって働いたのだ。私が遊説のために使った車は、私の関係の石油会社から借用した小さな古いオート三輪車で、石油にまみれたおんぼろ車だし、私と外に運動員の三人も乗ればやっとこせというあわれな車で、この車の上に立てたのぼりと車の両側面に書かれた「吉田」という文字に人々の目が集まり始めたのも、このあまりにも汚い貧弱な車のせいであったかもしれない。あたかもドン・キホーテの乗ったやせ馬よろしき代物であったがためと思われる。このオート三輪が坂道にさしかかるたびによくエンストを起こして立ち往生をした。すると炭鉱の労働者や町の人たちが飛び出して来て、ヨイショ、ヨイショと押し上げてくれたりした。
 「市長候補吉田」のすがたはといえば、洋服だけは英国製ツイードの古着を着こなしていたが、靴は旧陸軍の軍靴いわゆる編上靴の古もの、それが新生塾の農場の赤土にまみれていたものだから、たいへん人目をひいたのであろう。当選した後日に市民のある人たちから御祝いにとて上等の短靴を贈呈されたのである。
 贈られたといえば、「どぶざらい市長」というニックネームもちょうだいした。これは私がいつも、「市民の皆さん、若松市の市政は腐ったどぶ下水のようにゴミがつかえ、ボーフラがわいています。私が幸いにして市長になったら、どぶざらいをしたいのです。皆さんもどうか手を貸してください」と、保守派の政治家たちが暴力団とくされ縁にあることを、容赦なく告発したからである。
 ある日町の四つ辻の一角で、街頭演説をやっていた。すると、三方からやって来た何台もの車が私たちのボロ車を取り囲み、いっせいにクラクションを鳴らし始めた。耳を聾するばかりのこの騒音のために、私の演説も中止せざるを得なくなった。ところが怒ったのは聴衆でありまた町家の人たちであった。
 「やかましい、止めろ、止めろ、止めないかッ! 」
 この思いがけぬ一般市民の憤激の声を浴びて形勢不利と見たのか、彼らの車はこそこそと姿を消し去った。当時、市長選と同時に市議の改選も行なわれていたので、三十六議席をねらう六十人余りの候補者たちも市中を走り回っていたのである。その大半が井上氏の側に属する、旧自由党系から立っていたので、このような妨害が彼らのしわざであることは一目でわかった。今まで彼らの目に余る横暴を見過ごし、泣き寝入りしてきた市民たちも、この市長選を機に、私の掲げた正義の旗じるしに勇気づけられて立ち上がってきたのである。
 別なある日、若松高校の講堂で私の演説会が開かれた。そして私が演壇に立って話し始めるや、かぶりつきに座を占めていた数名の男たちが、かわるがわる野次をとばしていたが、例のどぶざらい論となり、私が「皆さん、若松市政は下水道にゴミがたまり、ボーフラがわいているような状態です。ゴミやボーフラを一掃しようではありませんか! 」と聴衆に訴えかけると、それを待っていたように、彼らの口からいっせいに、ののしり、あざけることばが飛び出した。
 「ヨシダケイタロウー、きさまは、おれたちをゴミやボーフラ扱いにしおったなー」
 私はすかさず大声でさけんだ。
 「市民の皆さん、こういうのがゴミです、ボーフラなのです」
 男たちは目をむいていきり立った。だが私も当時はまだ五十をちょっと越した壮年のころだから、この男たちに負けない大声でどなりつけた。
 「文句があるなら、あとで演壇に立って言えッ」
 急に彼らはしゅんとなって会場から退散して行った。

 二三 演説のアンコール
 もはや市民の大半が私に共感を示し、支持してくれているように思われた。が、井上派支持の連中のやり口は、ますます悪どくなって、私の個人的中傷を始めるようになった。
私にも若き日には一つや二つのロマンスがあった。そんな過去をほじくり出してなんとか相手候補の人格面に泥を塗りつけようというのである。今度は私の教会の婦人会の有志が怒りを爆発させた。二十人ぐらいのメンバーが中型のトラックを借り出し、オート三輪上の私の前後について、有権者の皆さん、と呼びかけた。
 「私たちは吉田先生に対する、あまりに卑劣な中傷を聞くに耐えなくなって立ち上がりました。過去のロマンスがあった。それだけのことなのです。皆さん、ロマンスのある人ほど人間味もあるのではないでしょうか」
 いよいよ三週目、終盤戦にはいり戦況は白熱化した。そして投票日の前の晩、私の最後の大演説会が毎日座という映画館で開かれた時には、館内は二千に近い超満員の盛況で、舞台の演壇をわずかに残して文字どおり足の踏み場もないほどの人であった。浪人生活丸五年の私にはりっぱな肩書を持った人物の応援演説なぞ一名もなかったが、私の娘たちが父のために熱弁をふるってくれた。
 「父のことをどんなに中傷しても、私たち家族はみな父を信頼しております。あなたがたは一度でも父とほんとうにつき合ったことがあるのでしょうか? 父の人がらを知りもせずに悪口をまき散らすのは、あまりにも卑劣ではありませんか」
 はじめ会場のあちこちで口ぎたなく野次っていた連中も、純真な少女のこのおたけびの前には一瞬シュンとして声がなかった。
 次いで私はくたくたになりかけた疲労の心身にむち打って最後の壇に登り、演説の前に一つの名詩を読み上げた。かすれて、しわがれてどうにもならぬ声を精一杯にはり上げて、西郷南洲翁の城山戦死の詩をマイクにぶっつけていった。

 孤軍奮闘破囲還 一百里程塁壁間
 我剣我馬 秋風埋骨故郷山

 皆さん、これは西郷南洲翁が、孤軍奮闘、幾多のかこみを破ってようやくに故郷の地にたちかえり骨を城山に埋めんとするあの時の心境をうたいあげたものですが、同時にこれは選挙の戦いに全力をことごとくささげつくして郷土の皆さんの前に、今、骨をうずめんとして立つ私の心境でもあります。何の私心もありません。ただ自分の生まれた故郷、若松のために残生をささげて奉仕したい。ただこれだけが私の願いです」
 演説を終わり座席にもどっても拍手は鳴り止まず、聴衆はほとんどだれひとりとして立とうとはしない。私は再び壇に登り厚く感謝のあいさつをした。何度頭を下げても拍手は静まりそうもない。言うなれば、演説のアンコールである。私は額の汗を拭ってから、最後の声量をさらにしぼりつくして語り続けた。

 こうした悪戦苦闘のすえ、昭和二十六年四月二十三日、私は若松市長に当選した。
それは私にはかつてない激戦であったが、投票率を聞くとなんでも九十パーセントを越した全国一の激戦であったとのことだ。そして私の得票は井上さんの二万台を楽に一万票ほど引きはなしていた。

 だが、戦いはむしろこれからであった。市長としての私の前にはいろいろの課題が待ちもうけていた。その中の最大の仕事に、若松、戸畑両市の間に若戸大橋をかけるという大仕事が待っていた。

 二四 市長牧師十二か年
 私は市長に当選した時、この市長生活が十二年も続こうなどとは夢にも思っていなかった。とにかく、若松バプテスト教会の現職の牧師という重い任務も負っていたのである。
ある時、米国の著名な大伝道者スタンレー・ジョーンズ博士が来日して、私の若松市長の公宅にとまられた際、こんな質問をされた。

 「市長と牧師という仕事をひとりでやれるのは、どういうわけなのか?」
 「私のところでは、信徒説教者というのがおりましてね、いざという時には助けてくれるのです。なんの不思議もありません」

 事実、信仰歴二十年以上という執事や、しっかりした副牧師がいて、絶えず私の欠けるところを補ってくれたものである。それにしても、牧師としての泣きどころは、なんと言っても、牧会ができないことであった。信徒の中に病人があるとか、家庭争議があるとか、悩みごとがあるなどという場合、尋ねて行って相談にのったり、慰めてあげたりすることができないのである。
 その代わり、毎週の礼拝説教には全力を尽くしたつもりである。政務に忙しい時でも、市長室にキリスト教関係書や聖書の原典を持ち込んで、ちょっとした時間を見つけては説教準備に励んだ。時間的にも能力の上でも、いつもギリギリせいいっぱいの勝負みたいなものであった。礼拝の説教には、かえってそういうせっぱつまった事情や重荷を持っていたほうが、私にとってよいように思われた。十二年間の市長生活も、地方政治の立場からではあるが、世間や政治の裏おもてを見、また、前国会議員の資格で、東京へ行って国会傍聴もするし、いろいろな友人連中から話も聞く。そんなこんなで、案外、牧師に専念している人よりも、世間の実情はより広くよく見ることができたのではないだろうか。

 二五 二十六か年の夢の実現 若戸大橋
 私は長年中央や地方の議会政治には携わってきたが、細かい地方行政の実務にはなんらの経験もないズブのしろうとだった。それが、東洋一の若戸大橋をかけ、さらに、世界に前例のない五市合併にこぎつけ、北九州市発足当初の市長職務執行者となる名誉が与えられたのは、決して私ひとりの働きによるものではない。多くの援助者、協力者があったればこそである。
 新まえの市長には、よき補佐役、つまり女房役がいなくてはやっていけるものではない。幸い、当時の杉本県知事と小西福岡市長のふたりのきもいりで、福岡市の第一助役として敏腕の定評があった坂村明君を世話してくださった。彼は一橋大学の私の後輩である。しかしそれはいわば五十万石の大藩の家老が、十万石の小藩の家老職に格下げになって来てくれるようなものであるので、若松市の市会議員の中に、この話を信じない人が多数いたのも無理ないことであった。
 坂村君は、私との初対面のときに質問した。
 「市長として、いったい何をやるつもりですか」
 「橋をかけたいのだ。それもただの橋ではない。若松と戸畑をつなぐ東洋一の大きなつり橋を海上にかけたいのだ」
 これが、その時の私の答えだった。
 「やりがいのありそうな、おもしろい仕事ですな。月給はだいぶ下がるが、いっちょう手伝いましょうか」
というわけで、それからまるまる十二年の間、私のよき女房役となって苦楽をともにしてくれたのである。
 若戸大橋が人の口にのぼり始めたのは、昭和七年、若松恵比寿の春の大祭の時の渡船転覆事件のころからである。その際の客を満載した若戸間の渡船が、人の積みすぎと風波によって転覆し、七十人以上もの溺死者を出したのだ。そのころから若松と戸畑両市の人口の増加と出入船舶の増加を考えれば、この事件も起こるべくして起こったというべきで、海上の平面交差を立体交差に変えるほかにないと必要に迫られていた。
 こうして昭和十一年の通常県会で、工費五百五十万円、三か年計画で、この時はトンネルを掘る事業案が満場一致で可決された。だが、いよいよアメリカから技師を招いて、測量に着手しようとする寸前に、昭和十二年七月七日、日華事変が起こった。と同時に、軍の指令でこの事業は当分見送りにしなければならなくなった。さらに、昭和十六年十二月、太平洋戦争に突入し、若戸海底トンネルの事業は完全に窒息させられてしまった。
この前後、私は福岡県議として、また国会議員になってからも、八方に手を尽くして、この事業計画の復活に尽力したが、戦争がますますエスカレートする情勢の中では涙をのんで断念するほかはなかった。
 さて、昭和二十六年、私が若松市長になった時、折りよく福岡県当局でも若戸架橋案を検討中だったので、昭和二十七年初頭から、若松・戸畑両市がタイアップして、猛烈な促進運動を始めることにした。諸事情から海底トンネル計画は架橋計画となって具体化したのである。それからの十年間、つまり三十七年大橋完成までは、私にとって文字どおり悪戦苦闘の連続であった。
 まず設計は、日本で初めての大工事だったので、各大学の専門家の意見も甲論乙駁、なかなか一致しない。橋の高さ一つをとって見ても将来大型船の出入りを考えて少しでも高いほうがいいという八幡製鉄と工費の関係から少しでも低くしたいという日本道路公団側と利害が衝突して、なかなか一致ができなかった。橋の高さ一メートルで当時二億円の工費の違いがあったのだから無理もないことなのだが、その調停にあたった私ははなはだ苦労した。
 しかし、なんといっても、一番の難事は五十一億円という巨額の国家予算の獲得運動であった。戸畑市の市長白木氏とふたりで北九州と東京の間をピストンのように往復し、建設省や衆参両院に足しげく通って、陳情の猛攻撃をかけた。この長年の運動中に内閣の替わること五回、そのたびに建設大臣が替わり、局長や部課長も替わる。そのつど陳情はふりだしにもどって、やり直しだ。サイの河原に石を積む思いをした。
 それでも、昭和三十二年暮れには、どうやら次年度の大蔵省の予算原案にのせてもらえるところまでこぎつけることができた。
 やれやれこれで一安心と思っていたところ、新年早々東京の連絡員から「みごとに落ちている」という電話がかかってきた。正月気分もどこへやら、白木市長と急遽上京して、政府、与党、実力者の間を頭を下げて回ったが、このときばかりはどうしたらよいものかと途方にくれた。
 国会の控え室で、自民党の大野伴睦氏に会ったのはその時だった。私はありのままの気持ちを訴えた。
 「大野先生、なんとかご尽力願えませんか。私は昭和十一年からこのかた二十年間、若戸架橋の実現のため一筋に生きてきました。もうこうなっては若松に帰るにも帰れません」
 これには人情家の大野氏もすっかり同情してくれて、言った。
 「曽我兄弟の仇討ちは十八年かかったが、あんたは二十年か! 長いのう、吉田さん。もうそろそろ通さにゃあいかんなあ」
 幸い、私の旧友が建設大臣になったり、衆議院の常任建設委員会の有力委員の援助があったりで、まず調査費を、ついで全予算の五十一億円の巨額も獲得できた。
その最初の予算獲得の吉報をにぎりしめて、私が板付空港に降り立った時、出迎えに来ていたのは、わが女房役の坂村君ただひとりであった。男のやきもちくらいみにくいものはない。
 こうして、昭和三十七年九月、東洋一の若戸大橋は完成したのだが、その前年の七月十五日、数千の観衆と全工事関係従業員の注視の中で、海を渡るメーン・ロープ第一号とともに、足場を渡った白木市長と私の祝福の握手は、言ってみれば「劇的なシーン」というわけであった。

 二六 神の踏み石
 若戸大橋の事業に続いて、私が携わったのは、門司、小倉、八幡、若松、戸畑の五市合併の大仕事で、その産婆役のひとりとなった私は、旧五市の市長の中で最古参だった関係から、新市、つまり北九州市の発足後一か月余り市長職務執行者として、すべり出しに必要な仕事にあたったのだが、ここでも多くの難事にぶつかった。
五市の対等合併などということは、世界でも初めてのことであり、国連からもおほめにあずかった。しかしそれなりに困難が多かったのは当然かもしれない。それらについてはここに書くいとまがないので省くとして、私はこれらの政治的責任を無事に果たしたのでやっと一切の公職を退けることになった。
 さて、講釈師風に言うならば、日本一の侠客の息子が牧師になり、市長を十二年勤めて、東洋一の若戸大橋をかけた、ということになるが、それにつけても思い出すのは父のことばである。
 「おまえのような人間は政治家なんかにならず、郷里に残って、郷里のために尽くせ」
しかし、それ以上に痛感することは、神の導きの偉大さである。旧約の箴言の二〇章二四節に「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」とある。まことにそのとおりである。
 すべての歩みが、あとから考えてみると、常に私の行く先々に踏み石が置かれているのであった。そして、それらがことごとく、神さまの不思議な摂理なのであった。
この乱れた世の中で、神の摂理の手からもれるものはない、などと言うと、笑うものもあるかもしれない。理屈はいろいろあるだろうが、そういうむずかしい議論をする資格は私にはない。ただ、信仰的に見た場合、私は、神さまの力はまことに偉大なものだと、自分の体験を通して、はっきりと言うことができる。
 現在、年に何度か各地に招かれて、自費伝道をしているが、これが私として老後の唯一の責任であり、また楽しみでもある。

憲兵隊

  手錠にて手と手を固くつながれて  未知のひぎ者と壕にかがみし

   かくばかり汚なくせねば留置場  ふさわしからぬ人を容れるに

   夜ふけて獄舎にきたりこっそりと  われをなぐさむる若き兵あり

   口惜しとおもふ心をおさへむと   こぶしにぎりてひざまづきけり 

獄中の苦痛

   空襲の警報ひびく独房に  かんちされおる囚人あわれ

   我が房に燃ゆる火近くややうやくに   手錠をはめてひきだされたり

   憲兵の隊長なりといふ男   われに土下座をせよと怒号す

   留置場のせまきくぐりにみをかがめ   こらへかねたる涙落しき

  赤れんが左右にならぶ独房に   死体やきばをふと想ひたり

病舎にて

   かくまでもやせうるものか病舎にて   見たる男は幽鬼のごとし

   うつろなるまなこをすえていつまでも   病舎のまどによれる人あり

   肺病のかくり患者と庭へだて   したしくなりて言葉交わしき

獄窓所感(自然とのしたしみ)

   独房のまどべの梧桐やはらかに   新芽をふきて我をなぐさむ

   夕食の箸をとどめてしばらくは   ひぐらしの声に耳すましいつ

   しづもれば夜汽車のわだち聞こえきぬ   そぞろに旅のしてみたくなり

   奥山の深き湖水にある如き   夜のしじまを覚めいたりけり

   刑務所の夜のしじまのそこふかき   暗に目覚めて物思ひいつ

   雲のいろしだいにあせて山々の   姿も消えて今日もくれけり

獄中生活(信仰へ)

   獄中のわがたのしみは朝夕に   聖書読み又夜はいのること

   かりそめの病の故に病舎にて   はじめて聖書に触れて読みたり

   ひとたびは死を覚悟せる我なれど   神知りしより恐れは消えぬ

   死と生の間をさまよふ我霊に   神は更生の光たまひぬ

   みつかい(天使)は姿をかへてつぎつぎと   われに来たりて励まし給ひぬ

   たのしみは窓よりみゆる山のいろ   雲のかたちに神おもふとき

義憤

   おごるもの久しからずのおしへあり   わが軍閥はつひに亡びぬ

   天皇の御名にかくれて私の   いかりをはらす卑法なるもの

任務をはたして

   牢にあれど心はあかしくにのため   つひにつとめをはたせる我は

   どんぞこの獄中にありて人間の   どんぞこの気持われは知りたり

家族をおもひて

   釈放のとき間近しとききしより   にはかに長し日の暮るるまで

   しとしとと夜の雨ひびく獄にして   家族ら思ひ涙落しき

あとがき

 ごらんのようにこれは、人生の荒海を航海し終わって母港の片隅に静かに余生を過ごそうとしている、ひとりの老船長の航海日記の一部であり、またこれから人生の大海に処女航海をしたり新たな冒険をいどもうとする、若い航海士たちへの参考のためにもと思って書いたものです。
 したがってその内容は、私の半生に起こった不思議な記録ですが、皆さんももしこのような苦難にあわれるとしたなら、どのような意義をそこから体得されることでしょうか。それはもちろん人によっていろいろな違いがあることでしょう。しかし私には、ごらんのように大きな災厄を通して、大きな恵みが与えられました。世の中には不可思議な神の導きというものがたくさんあることを知っていただけるなら幸いです。私たちの世の中を、ただ表面に見えるだけのものだと浅薄に考えたり解釈しないで、いろいろの現象や事件の奥には何かしら私たちの想像も及ばないような大きな神の御手が働いていることを、敏感に体得してくださるように願ってやみません。
 さて、ものを書いてみていつも感じることは、自分の実感を外に現わすことのなんとむずかしさよということです。いやこれは、どなたも同じような経験を持っておられるのではないでしょうか。特に信仰上の体験はその人独自のものでありますから、これを共通な文字で文章にあらわすことは無理な話です。もともと文字は単なる符号にすぎませんから、生きた体験を、たとえば自分の喜びや悲しみや驚きの実感を示そうとしても、それはとうていできるものではありません。しかしながら、本書を書き上げた後で私はつくづくと次の聖句の意味が非常に身近に体感できるように思われたのです。それは、新約聖書ユダの手紙の最初にある、あのみことばでした。「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」
 この聖句の中には三つの重要な、注目すべきことばのあることがお気づきになるでしょう。父なる神に愛され、イエス・キリストに守られ、そして召された者。これこそほんとうのクリスチャンとしての三大体験であると思います。そしてこの書は、私がどのように神から愛され、守られ、そしてまた召されたかということの物語でありまして、父なる神の愛がどのように私につぎつぎとふりそそがれたか、それは本書を通して十分わかっていただけたことと思います。またイエス・キリストにいかに守られたか。あの獄中に飢えた際。死の待合室で地獄行きの車を待ちうけた時。空襲で独房内でむし焼きにあった際。もし御子イエスの守りがなかったとしたら、私はとっくの昔にひとにぎりの灰と化していたことでしょう。そしてついにキリストの招きが私にもやって来たのです。
 「これでもか、これだけしてもまだわからないのか、早く父なる神の招きを受けなさい」と言わぬばかりに強烈な連続的パンチを私にくださったのです。これではいかに頑愚な私でも重たい腰をあげないではいられなくなったのです。このユダの手紙の第一節はまことにキリスト者としての体験を明快簡潔に示したもので、これくらい適切な文句は他にまれなように思います。

 以上を要約しますと、いわゆる神の摂理ということになりましょうから、ここに少し補足をしてみたいのです。そのわけは、どうして私のような真宗の門徒がキリスト教に転向したのかという理由です。

 「神はそのしいたげの中で彼らの耳を開かれる」という聖句がありますが、同一の困難や虐待にあっても、それが真宗の阿弥陀さまの方に引きよせなくて、イエス・キリストの方により強く引きよせられたのはなぜでしょうか。そうした、立ち入った理由を少し補足しておきたいのです。

 長らく真宗の門徒であった私には、南無阿弥陀仏という称名念仏はまことに心の平安を求めるためには親しみのあるものでしたが、私が獄中で苦しめられたようなあのような窮迫のさなかにおいては、もっと力強い心の支柱が必要であったのです。つまり仏教一般の原理として信奉されている因果の理論では承服できなかったのです。現在の苦しみはすべて前世からの業の累積した当然の結果であるから仕方がないというような考え方では決して割りきれないものがありました。たとえどのような不合理不正と思われるような迫害を受けても、皆、前世からの宿業だ、因果の応報だからあきらめよ、では納得できないものがありました。私にはそのような冷酷な機械的な因果論や宿命説には屈服できない、一種の正義感のようなものがあって承服をゆるさなかったのです。そして聖書を通して天の父の偉大なる摂理を教えられ、一羽の雀にせよ、野に咲く一輪の花にせよ、ことごとく天の父の絶対の愛の中に包まれ支配されていることを知って、こうした獄中の苦しみも神の深い思し召しの中にあると信じるほうが、どれほど私にとっては強い慰めと激励であり、また明るい希望を与えてくれるものであるか、はっきり選択できたからです。暗い因果や宿命でなくて神の愛のふところにいつでも包まれているという摂理の教えこそ、私の改宗転向の主なる動因となったのです。それにもう一つイエスの祈れとの強いお勧めでした。そして祈りの応答をかくもすみやかに生き生きと与えられたことが、あのようにたび重なってくると、祈りに弱い真宗であるよりも、もっと明快強烈に祈りを根本とするイエスの教えに改宗する外にはどうにも安心ができなかったのです。

 もちろん、この世の中には私たちの目から見ては、わけのわからないことがたくさんあるようですが、その真相は神が必要と思われる時がくればしだいに明らかにされるでしょう。聖書は、私たちの命の救いについて必要なことのみがしるされている書物で、宇宙論や世界観や社会人事の一切を説明するための書ではないのですから、ただ救いにあずかることだけで私には十分でした。

 近ごろ神の摂理について語られることが少ないのはなぜでしょうか。勇ましい社会革命とか反体制論とかをさけぶことも、人によって福音理解の違いかと思いますが、神の摂理を信ぜず、説こうともしないものがあるなら、それはもはや、真のキリストの教えとは言えないあやしげな偽者かと思います。箴言二〇章二四節に「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」とありますが、人間の歩みを定めるお方として、私には人格的神こそその方であり、父なる神の愛の御手に一切を信じて任せ奉る外にどこにも真の安心が与えられないと確信しました。

 さらに同じく箴言の二三章二六節に「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ」とありますが、結局私の心は主に吸いよせられ、私の目は十字架の上にくぎづけられたのです。私たちの苦しみも、また喜びすらも何もかも主から来るものと信じて受け取る時、苦しみとして恐れず、喜びとしておぼれず、すべてに感謝して善処できる心がまえが必ず与えられるでしょう。

 最近のキリスト教界に、神の摂理がもっと力強くあかしされ、声高らかに説かれることを願ってやみません。神の守護がもっともっと明らかにあかしされてほしいものです。
次に私が回心の機を与えられた「汝自ら復讐するなかれ」という戒命ですが、これくらい実行のむつかしい教えも少ないですね。復讐の精神は人間性の奥深くに巣くっている、いわば本能に近い、原罪にも等しい罪の根で、こうした悪の根を断ち切ることはいかに至難のわざであるか、どなたにも体験のあることと信じます。特に正当な理由もなくて、他からひどい目にあわされた人々の恨みは、理屈や説得で解消できるような、なまやさしいものではありません。

 しかし、いつまでも人を恨んだり憎んだり、さらに復讐の鬼となって怒りに心身を燃やし続けることは、あたかも慢性の自殺をはかっているようなもので、結局自分で自分を毒殺するに等しい、恐ろしい結果を生じるでしょう。そこでローマ人への手紙一二章一九節以下の聖句には、何度くり返し読んでもつきない慰めと解毒の神水が与えられています。人に対して怒ったり復讐したりすることが動物的であるのに比べて、人の悪をゆるすことは、まことに人間的というよりもむしろ超人間的な高貴なわざで、そうありたいものです。しかしそれを自分の考えや力でやろうとすると、心の中にとげでもささっているかのように、ますます抜きにくくなるようです。ゆるそう、忘れようとすればするほど逆に不愉快な印象がいつまでもとれなくなります。そこで自分のはからいで決行しようとせずに、すべてを支配したもう父なる神の御手の中にお任せするにこしたことはありません。自分の知恵や力にたよらずに、全知全能なる神に任せまつるとき、そこにすばらしい結果が必ず示されてくるでしょう。

 最後にもう一度、箴言一六章の三節を参照してみましょう。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」人生七十の年を越えてつくづく感じることは、人間は決して自分の考えたとおりの方向や方針どおりに結果が実現しなくて、むしろ考えてみたこともないような意外な方向に向かうことが多いことです。それは、信仰のない方には失望や挫折を与えるでしょうが、神の摂理を信じる者には、新たなる希望と出発点とにおきかえられるのです。どうかこの小著を読まれた方は世の中には意外なことが数多くあることを知り、神の偉大な愛の御手はあなた自身の上にも常にのびており、触れておられることを、真剣にかえりみていただけるならまことに幸いです。

一九七一年八月一四日 著者

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     中村百合子

第一礼拝:毎週日曜日9:00am

第二礼拝:毎週日曜日11:02am

賛美集会
毎月第三土曜日 3:00pm

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